謡曲十五徳
不行知名所
不望詠華月
不祈得神徳
不習識歌道
無友慰閑居
不訓近武術
不触識仏道
不軍識戦場
不思恋美人
在旅得知音
不望昇堂上
不思交高位
不厳嗜行儀
不老知古事
無薬散鬱気
辛酉如月
鐡幹書
という扁額が手元にある。この家に越してきた時から二階に置かれてあったのだ。
我が家は妻の祖父母が住んでいた家を譲り受けたものだ。その祖母が晩年に建て替える以前の数代、ごく庶民的な町家造りであった時代には、文人墨客が寄留することも稀にあったそうな。与謝野鉄幹(
明治6~昭和10)がのちの我が家を訪ねたかどうかは判然としないが、いずれにせよ往時の文人連との交流、その名残りたる額一面ではあろう。
ちなみに、我が家が町家造りであった時代の造作を私はもちろん見ていない。今となっては小鰻の寝床の細長い敷地に肩をすぼめて建つ、変哲もない昭和的家宅。建て替えずに修繕で生かしておいてくれれば楽しかったろうにとはちらと思うが、通り庭におくどさんと段差・温度差・姿勢差が激しく、風呂のない暮らしは老体の義祖母には厳しいものであったろうし、私とて容赦ない隙間風を喜んで忍び、あちこちにガタがくるたび古民家専門の工務店に大枚はたいて修繕を依頼できるような数奇者であるわけもない。玄関で靴を脱いで上がり、風呂も水洗トイレも使える、団塊ジュニアにとって当たり前の二階家が相応の住まいというところだ。住めば京都。
さて謡曲十五徳は室町の武将にして歌人・幽斎細川藤孝の記したものとされ、ネットでいいかげんに調べた限りでは、上に引いた鉄幹書と細部や並び順が異なるのだが、してみると鉄幹先生は、確かこうだったと思い出すままにそらで書きつけたのだろうか。だとすれば、かえって教養の程が垣間見えて恐ろしい。
ただ肝心の十五徳、正直なところ似たり寄ったりの項目が並んで、果たして十五も要るかいなと。「不」で統一すれば少なくとも形は整ったものを、二つの「無」で不規則に邪魔をし、さらに「在」は without 始まりのルールをも崩している。どうも名文とは云い難い。また、これは謡曲 “のみ” が備える美徳を称える箇条書きだが、のちに生まれた地歌だって歌舞伎だって、これらの徳のおおかたを帯びてはいよう。
そう、地歌にも共通する、広く「日本の芸能の美徳」であればこそ、地歌好きに響く文言も多く含まれる。「
不行知名所/不望詠華月」あたりは言わずもがなとして、とりわけ現下の状況にあっては「無友慰閑居」と「無薬散鬱気」は極めつきにグッとくる。ただ、地歌を歌って慰められ鬱気を散ずることができるのはもっぱら糸方、三絃に限られようか。竹は単管でただ吹いても、いや、そこに歌の世界を現出せしめるような吹奏を為せるなら…。いやいや、そこまでの表現を為し得る吹き手なら、本曲を吹いておればさらなる三昧境に遊べるか。
とまれ、室町の昔においては世界像を描ききれる唯一の芸能として謡曲が君臨していたことを、十五徳は教えてくれる。ガンバレ地歌、夜明けの産声まで今しばしぞと21世紀から吹いて応援。
などとどうでもいいことを書いて、閑居を慰め気鬱を散ずる。マルクス・ガブリエルの曰く「民主主義を損なう」蠱毒たるSNSではあるが、劇薬だけにモルヒネ的効能を持ってもいる。クスリに耽っていないで、身体を動かさねば。もっと吹かねば。しかし。
GX7 III
「前広」なんてけったいな言葉が日本語に在るとは知らなかった。大辞林にも載ってるそうだが、にしても、マスクド・スーパープライムミニスターの用例は語義本来から少し外れていそうに思う。相変わらず日本はできることをやっている。振れる袖はこれだけ、いっぱいいっぱい、が今の日本であるし、国民を浄土へ導く笛吹き男、じゃなかった旗振り役のお歴々を選んできたのはボクたちワタシたち。えらいシモタ!浄土のはずが地獄やがなと悔やむなら、必要なことを学んで(これが重要)、目の前の世界を変えるしかない。