大昔に読んだカート・ヴォネガットの「タイムクエイク」。作中、タイムクエイクすなわち「時震」の起きた瞬間に向け、誰もが思考と行動の自由を奪われて一度行われた過去を10年分トレースしていく行程が、多くの人が「こうするしかない」を生きている今と被さって見える(あらすじはずいぶんと違うが)。タイムクエイクの瞬間までリプレイが進んだとき、人々と世界はいきなり自由意志や自由運動を取り戻すのだが、当然とんでもない混乱が起きる。コロナ禍が過ぎ去って仮死から我に返ったとき、私たちの目の前に広がる景色はどのようだろうか。
と書いてみて、どうやら自分は罹患せず、コロナ後の世界を睥睨するつもりでいることに気づく。我ながら何を根拠に罹らないと思うのだろう。
理想と身勝手を言えば、感染防止マナーを守り、飲み会など後ろめたい行動をとっていない状態で病院がパンクしないうちに罹りたい。そして、無症状のまま誰にもうつさず回復、抗体だけ獲得して以後安泰。そううまくいくわけもないが。医療崩壊の真っ只中で罹って軽症の範疇におさまらなければ高確率でサヨウナラだ。ワクチン、特効薬ができるまでは用心、用心。しかし、いつまで?
GX7III
暇なのだからと、長大曲を練習しようキャンペーンを独り催行している。今日は始めるのが遅れ、根曳の松と、二尺通しの融まで吹いたところでお時間。軽く指がつりそうになった。昨日までに八重衣や残月、松竹梅も吹いたが、ところどころ譜が飛んでいる。腕も脳もまずまずなまっているのだ。いつ来るか分からぬ自由運動再開の瞬間に向けて、オノレにムチを入れねば。