Web呑み。妻のそれに巻き込まれるかたちで東京の知人と初めてやってみたが、やはりと云うべきか、正直なところどうにも寛いで呑めなかった。電話より喋りづらく、常に相手の言葉を聞き逃さないよう、あるいはそれを遮って自分が喋り出さぬよう軽く神経を張っている必要があり、なのに酒はやたらと進んで(なんとか話せてはいてもうっすら手持ち無沙汰を感じているからだろう)酔いが緊張を妨げる。ブレーキとアクセルを同時に踏むような。21世紀のコミュニケーション手段、これも私にはダメか。
LINE はソフトのたちがなにかと腹立たしく、また複数のグループを抱えつつの高速チャットについていける気がしない(みんな私よりは忙しかろうに、LINE にどれだけの時間を捧げるのだ?)ので、例外を作らないのがせめてもの義理と、誰に誘われようとも国内の通信には一切使っていない。
Facebookは…渋々ながらアカウントは持っている。昨年、急ぎ取材を依頼したいが公開されている連絡先がFBのアカウントしかない、という方がいたためやむなく開設したものだが、投稿は一度もしていない。トモダチ申請も、知り合いからであっても上記の義理上すべて無視している。アカウントを抹消しないのは、まかり間違って非常時に役立つことがあるかもしれない、という一抹の可能性を捨てきれずにいるだけのこと。それも、この穴熊状態にあってさえさわらないのだから、じゃあどうなれば使うのかという話で。
「世界を広げる」「友達とつながる」という正義のような顔をしたお題目を人質に、あるいは誰しもが持っている自己承認欲求を煽り立て、孤立が嫌ならこれをお使いなさいと優しく脅迫して売り込むクモの巣型SNSの魂胆、いずれも気に喰わない。使っている人をあしざまに言うつもりは毛頭なく、どころか商売・発信の道具としては実に有用で使わない方がおかしい。私はただ、そのツールの後ろにある影がほくそ笑むのを嫌うのみだ。
気に入らないものを受け容れずにいるだけでも、受け容れた人々が多勢となれば、マイノリティと書かれた段ボールへ放り込まれてしまう。ラベルを貼られたアナクロは、頼んでもいないのに人を分類するなとヘソを曲げる。而してヘンコは生まれ、あとはただ生きているだけで自動的にねじけていくような仕儀となる。
GX7 III
されど、空しい愚痴を並べながら多勢の前に屈することもしばしばであるのがヘンコの泣き所だ。「ここ Wi-Fi 飛んでんな」のカズレーザーではないが、電磁波にひねもす曝され続けていいわけはないと避けていた無線LAN、今引き揚げられたら即、返せ戻せと悲鳴を上げるだろう。
Wi-Fi よりも積極的に遠ざけていた Bluetooth とて、カーオーディオでの使い勝手の良さに驚いてからは iPod の専用ケーブル接続(これがまたしょっちゅうバグる)をすぐやめてしまったし、今日はついに、暇にあかせて部屋の古いアンプにもチャチなレシーバーを繋げ、携帯からオーディオを鳴らせるようにしてしまった。携帯におさめてあるのは圧縮音源であり音質はCDに劣るのだが、どこに何があるかもはや把握できていない円盤をいちいち探し出し、うやうやしくプレーヤーにかける機会は急速に減ってゆこう。
なんだ、かえりみれば我ながらやられっぱなしではないか。近未来には「えーっ、今どき LINE 使ってないの?」なんて言葉を吐いてハッと青ざめるオノレがいそうだ。アナクロ居士は、居士であることを好むのみの天邪鬼なのだろうか。せめて竹は、せいぜい吹いてあと二、三十年、このまま古き佳きの尻尾にあって鶏口を決め込もう。「えーっ、まだ竹の尺八吹いてるの?」。桑原くわばら。
脅迫にちかい言葉は近くより来るときにこそ信じやすかり
戦ひの終りが平和の始めではなかつた。今もそれは同じだ
ともに岡井隆「暮れてゆくバッハ」より。