気がつくと雑文の数が100を超えていた。約2年半、月に三度ほどのペースか。
K-5 II
書き始めてから今まで、いろんなことがあったような、そうでもないような。少なくとも、大した進歩はない。最後の八寸に出合えたことは紛れもなく僥倖であるが、流れの中での必然でもあったのだと思う。この竹が田中さんのもとから私以外の人間へと渡る不幸を、どこかの神さまの見えざる手が防いだ。わりと本気でそう思っている。前項の腹式呼吸にまつわるよしなしごとも、この竹を手にしてからごく自然に身に染みてきたことだ。出合ってまだ4カ月も経たないが、私のための竹であり、竹のための私である。
表に出ず、おんもにも出ぬまま、この春で竹を始めてちょうど30年経った。とて、私如き何の記念にもなりはしないが、その区切りの時に最後の竹を手にして、しかも長期間の足踏み、もしくは慣らし運転の時間を得た。これらのことに意味を見出さぬのではあまりに空しい。
吉田拓郎の「春だったね」を聴きながら。私が生まれた時点での彼はまだ鳴かず飛ばずで「結婚しようよ」大ヒットの前夜。私の拓郎は彼にちなむものではなく、読みもタクオで違う。生まれてこのかた初対面でタクオと読めた人などいるわけもなく、素直にタクロウであったらば、わずかに分かりやすい人生を歩んだかもしれないなと夢想もする。100回を過ぎても変わらずよしなし、よしなし。書いているうち、曲は「大阪行きは何番ホーム」に。