越してきた15年ほど前、夏の京都で積乱雲を見ることはそうなかった。たまにできていても、輪郭のぼんやりした、締まらない雲であることが多かった。こちとら神戸っ子、夏といえば瀬戸内と六甲の山並みがつくりだす、乗って遊べそうなほどディテールのくっきりした大入道雲を見慣れていた(東京時代は空が狭すぎて雲を見上げることもろくになかった・比喩的)ので、土地が違えばこういうものかと多少寂しく諦めていたのだが、どうもここ数年、京都の積乱雲がモコモコと大きさや密度を増している、そして、それを見かける頻度が上がっているような気がする。
LX100
おお、見慣れた雲に近いやないかと懐かしさを覚えつつ、これで大丈夫なのか?とも思う。夏の琵琶湖で釣りをしていた頃は、東の方に夕焼けを映してややグロテスクなほどに赤黒い積乱雲ができているのを見かけた(その下ではゲリラ豪雨と雷が猛り狂っていただろう)ものだが、それよりだいぶと西、比叡の山並みから湖南西岸にかけての直上辺りにこんな雲ができるのは、常のことなんだろうか。
雲といえば、7月に初めて知って、やたら聴くようになった曲がある。鈴木常吉の「思ひで」という、ドラマ「深夜食堂」のオープニングでかかっていた曲だ。私はこのドラマを10年以上前の本放送時に全く見ていなかったので、たまたま再放送が流れていたこのタイミング(コロナで新規収録のコンテンツが枯渇し、各局再放送・再編集の番組だらけだった時期だ)でようやく知ったのだが、以後、今までに100回は聴いただろう。曲から受け取るものは人それぞれだろうが、私はこの曲に、一定の速度で揺るぎなく迫る死を思わざるを得なかった。
蛇の足を接げば、曲を知った日のしばらく前、流しのギター弾き役であがた森魚がゲスト出演していたバターライスの回を観て(途中から観たので「思ひで」には出くわさず)思ったのは、このドラマの裏テーマが「この人たちのおおかたは、あと50年もすればこの世に居ない」ではないかと勘ぐったものだ。
CDを入手してほどなく、鈴木氏が亡くなっていたというニュースに接した。あとから調べれば、死去が7月6日、ニュースになったのが27日、放送日は12日だったはず。つまり私がこの曲に出合ったのは、彼が亡くなった後、そして、それが発表される前、という妙な頃合いになる。
調べれば分かるが、この曲(メロディ)はアイルランドの古謡。しかも歌詞は、牛の乳搾りの娘が通りすがりの旅人にコナをかけられてすげなく振る、という内容の戯れ歌だ。「そんな歌詞とこんなメロディ」が一緒になっていたことがまず奇妙なことだが、さらにそれを日本人が換骨奪胎、まるで死んでしまって肉体のない人が歌っているような歌に仕立ててしまう。音楽って面白いと、鈴木氏の早すぎる逝去(65歳)に思いをいたしつつ考える。私の本曲は、語るに落ちるが今のところゴリゴリの肉体派。「思ひで」の如き少し怖いような透明感を、いつか纏えればいいなと。その頃には私の生もやや色濃い影を帯びているかもしれないが。
さて、もうじきいくつかの舞台や出番が回ってくる。しんねりむっつり巣籠りなんぞしている場合ではない。おんもはともかく、表には出よう。よしなし、よしなし。