残月
峰崎勾当 作曲/箏手付未詳
箏:阿部幸夫/尺八:河宮拓郎
<歌詞>
磯辺の松に葉隠れて 沖の方へと入る月の 光や夢の世を早う 覚めて真如の明らけき 月の都に住むやらん (手事) 今はつてだに朧夜の 月日ばかりは巡り来て
「邦楽百科事典」(音楽之友社)を開くと、「大阪手事物の頂点を示す作品」とあります。まずその通りであり、かつ、全地歌においても頂と呼んで差し支えのない至極の大曲、難曲です。峰崎勾当の門人の才媛が早世したのを悼んで作られた曲とされ、重苦しい前歌、きらめく思い出に浸るように哀しくも華やかな段構成の手事、我に返って寂寞の、前歌に比べればうんと短い後歌、いずれにも一分の隙さえありません。
今回のように三絃を抜いた、箏と尺八、一面一管での「残月」は、たしか20年ほど前に小規模な邦楽ケーススタディのような場で阿部先生にお手合わせいただいたのが初めでしたが、そののち、田嶋直士先生主宰「翔たけ日本音楽」という会にて、阿部先生のご高弟であった故・前田容子さんと合奏させていただいたのが思い出深いことでした。
一面一管での地歌合奏には、三絃無しでも歌える(歌は三絃伴奏を前提に作られているので、その主旋律から外れて遊ぶことが多い箏を弾きながら歌うのは非常に難しいのです)という糸方の腕自慢、あるいは曲弾きの側面もありますが、意義としてはもちろん、三絃を不在とすることで浮かび上がる空虚と違和を越えて、空席の三絃を現前せしめるような面白き演奏を目指すことにあるのだと思います。
誰もが苦しんでいる疫病禍を言い訳にはできませんが、東京にお住まいの阿部先生には、下合わせにいらしていただくにもなにかとリスクを負っていただくことになりましたし、私が上京しようにも情勢が…ということもありました。それでも、四半世紀のご厚誼を賜る先生とであれば、三絃が「居ないのに居る」、そんな月の都にひととき遊べるものと信じる私です。
(以上、パンフレットより)
撮影/岡森大輔