ひとさまの古典を聴いていて、流派不問でしばしば気になること。
・タンギングを使っている
・ナヤシが下がりきっていない
・メリ音が下がりきっていない
・音尻が下がる
・息を継ぐ音が耳障りなほど大きい
・音尻が派手にシュルシュルいう
・顔をユっているが音がユれていない
・身体での拍とりは問題外として、演奏中に不要な動作をおこなう癖がある
上から概ね、すごく気になる→そこそこ気になる、の順。
大部分は私もたまに/しょっちゅうやってしまうことであり、悪しき尺八あるあるとも云える。これらがすべて、表現を云々する以前のベカラズであることは竹吹きなら誰でも知っていよう。すなわちこれらを克服することは基本中の基本、のごく一部であるのだが、その一部をすら完璧に仕遂げることができる人の数は決して多くはない。
然り、基本とは根本であり、ゆえに至難だ。当たり前・前提として必ず守らなければならないのに守ることが難しく、そのうえ、すぐに忘れて踏み外すもの。だからいつでも基本に戻って、しくじらないようにそろそろとやり直さなければならない。というより、踏み外しているうちは基本が身についてなどいないのだ。
先日、邦楽とは別ジャンルのある御仁に「おっしゃる通り、それは基本です。でも、もっと新しい、インパクトのあることをしましょうよ」と説かれた。前後の文脈は略するが、接続に「でも」を使う時点で、この人は基本を「初心者でもマスターできる、簡単で単純で、ついでに古くさいこと」と見なしているんだなと思ったものだ。そうした認識で “たかが基本” を守れるんだろうかと訝しんだが、果たして。この先は、言わぬが花。
およそメソッドというものがある分野において、上のごとき構造のなりゆきは大いなる「あるある」だろう。基本が大事と大きな声で言いながら、基本を忘れて得手勝手や横着をするのが人。いやさ忘れる前に、一度でも基本を覚えたか?
先述の「題目と運用」の問題でもある。自戒、道中。花深き処は、基本の延長上にしかなく、基本が完全に身についたときには、おそらく遠からずの場所にある。
LX100