六段の調は、尺八を学ぶ者の常どおり、さくらや荒城の月など唱歌をいくつか習った後に稽古が始まった…はずだ。
出身のサークル・早大虚竹会では(今は知らぬが当時は)新入生は12月の定期演奏会で六段を吹くという決まりだったが、その頃の私はかけもちサークルやバイトにも忙しく、音もろくに出ない竹の練習は超おざなり。おそらく西伊豆・松崎町の山寺を借りての夏合宿あたりにはとうに稽古が始まっていただろう六段は、定演当日になっても仕上がるどころか。舞台ではどこを吹いているのかすぐ分からなくなり、一緒に吹く新入生が5人もいるのをいいことに指だけ動かして吹いているふりをしたあげく、聴きに来てくれたかけもちサークルの友人たちに「吹いてなかったよね」とバッチリ指摘されて赤っ恥をかいたのだった。
その後も、学生時代は六段を吹く機会がそこそこはあったように思う。後輩への指導(1年や2年早く始めたくらいで指導とは、今となっては笑えるが)であったり、他大学の箏曲サークルの賛助であったり。うむ、苦々しくも懐かしい。
しかし、長々しく在籍した大学をあとにしてからは、六段を何回吹いたろうか。少なくとも大きな舞台で、単管で吹いた記憶はない。乱輪舌はあるが、六段はない。つまり、この曲に対しては、大本番を前提として対峙することが30数年なかった、ということになる。そもそも生半可な学生時代の舞台などノーカウントにしても差し支えなく、つまり、しばらく先に三曲合奏の六段で舞台に上がることが決まっている今、私は生涯でほぼ初めて六段にまともに向き合い始めている。本当は6月の、別の舞台で六段にまみえるはずだったが、無期限延期では致し方なく。
LX100
とまれかように、「ちゃんと吹く」のが大いに久方ぶりの六段であれば、「あれ、ここはどう吹くのが正しいんだ?」「これ、どうしてだ?」「この手は何だ?」とまあ、当時はなんの疑問も持たず「そういうものだ」と手に馴染ませることに必死だった旋律や奏法が、ハテナだらけであることに簡単に気づく。たとえば、ふだん地歌ばかりで純箏曲をあまり吹かない私が久々に六段を吹いて思うのは、「指揮者不在の合奏で、ドアタマの出だし。まずこの音を決定的に導くきっかけって何だ?」。もっと言えば「何である “べき” だ?」。
地歌であれば歌い出しの節回しで最初の表拍の位置は正確に決まるし、前弾から始まる曲でも(それがベストの方法であるかは措くとして)三味線が軽いハジキをきっかけに、第1拍の位置を両翼へ知らせてくれる。箏の場合は、歌がなければナニきっかけで音楽を始めればいいのだろう。
きっかけを託された箏の奏者が小さな「伏せ、起き」のアクションで周りの人間に拍をとらせる手法はポピュラーだが、極端な話、奏者の一部が盲人であるならばこの方法は通用しない。声で小さく「ヤッ」とでもやればまず拍は合うが、せっかくの器楽曲で声を発するのはどうか。竹の装飾音をきっかけにする(琴古との六段なら、私のいわゆる「リツレ」の「リツ」がきっかけになる。都山なら「ツレ」の「ツ」だろう。多くの場合、竹は吹き始める前に少し身を起こすアクションを求められる)、とあらかじめ決められている場合があるけれど、箏曲で竹がきっかけというのは…それが最善だろうか。そして、竹不在でも糸方同士で第1拍の位置を共有できなくては合奏が揃うわけもないのだから、なんらかのメソッドがあって然るべきだ。その「方便ではない」原理的なメソッドとは、なんだろうか。
簡単に答えは出ないが現時点で思うのは、あらゆる可能性を想定した場合、やはり三味線のハジキ始まり同様に箏も音で知らせるのが最も汎用性が高い方法ではないかということだ。奏者が盲人でも、竹が装飾音を一切使わない吹き手であっても、三曲でも二曲でも一曲合奏でも合わせられる方法となれば、畢竟これしかないように思う。ではその音は、何であるべきか。情けないことにこの肝心が、箏を弾いたことがほぼない私には分からない。爪音なのか、箏の胴を叩く音なのか。
無音・ノーモーションからいきなり合わせることができればもちろん言うことなしだが、それは究極、テレパスでもなければできないこと。同じく指揮者不在の弦楽重奏を見ても、弓のアクションや「うなずき」をスタートのきっかけにしている。盲人奏者をほぼ想定しておらず、例えばカルテットならば4人が少し弓なりに位置をとって、アイコンタクトも可能な状態で弾き始めることができるのだから、これはあちらの事情としてOKだろう。
さてこなたの箏曲は、ほぼもれなく偉大な盲人たちによって作曲され、当時は楽器を跨いだ合奏など想定されていなかった。そんな昔はどうあれ、今では三曲合奏が成立し、奏者は各々客席に正対している。ここにおいて箏曲は、メソッドとしてどう始まるべきか。悩む。こんなことで悩んでいて(いろんな意味で)いいのだろうかと、また悩む。次の六段はひとさまの舞台であり、全員が目明きであるから、在来のアクションで吹き始めることになる。音楽的に問題が出るわけでは全くないし、むしろ導音という余分がないだけそれは洗練されているのかもしれない。だがそれでも、私のなかで答えは定まらないだろう。一緒に最善を考えてくれる、糸に覚えのある方がいれば心強いのだが。