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いずこじ

陰陽、笹の葉、風の色。琴古流尺八、道中甲有り呂有り。

笈の小駄文

一昨日の「邦楽を楽しむ会」。おかげさまで満員御礼でありました。おいでくださいましたみなさま、ありがとうございます。凄まじい湿気でしたが、かろうじて降らなかったのは主に私の力であります。

都山と琴古の手付の違いを楽しむ、という企画にて、六段×2、黒髪×2、新娘道成寺、楫枕の6曲を「すべて」弾いてくださったのが野田友紀先生でした。なんともはや、ありがとうございました。都山流のオーソドックスを外さない端正な吹きぶりを披露してくださった吉田工山さん、自由曲2曲を箏で彩ってくださった野田典子先生、ありがとうございました。そして、この企画内容を解説するとなれば相当なボリュームになりそうなところ、的確な要約で必要十分のコンパクトさにまとめ、平易にお客さまに伝えてくださった司会の岡田道明先生、ありがとうございました。

都山・琴古の対比となれば、私にも発露したい「思うところ」はありまして、つらつら書いてみたところ、やたらと長くなった上に、岡田先生に「パンフに載せたいならこの〆切で」と伝えられた期日をあっさりオーバーしてしまい、コンビニでコピーして挟み込みをお願いする仕儀とはなりました。8月の演奏会のチラシと共に挟み込んでいただきましたスタッフのみなさま、ありがとうございました。これからは挟み込みたい告知がある旨、必ず事前にお伝えします。

というわけで、私の駄文は以下に。私見・憶測が多くパンフに載せるべき文章でないことは明白で、結局は手刷りでよかったのでしょう。

明日は某クローズドの舞台で、初めて人前で吹く里の春。東京時代にはついぞ聴かなかった曲ですが、関西では比較的よくかかるそうで。なにせこの1週間で3度目の舞台、どうにも練習不足ではありますが、「舞台上で初めて分かること」からテープ逆回しで勉強してまいります。


LX100

アタリについて
河宮拓郎

 たとえば地歌・箏曲の尺八譜に「レ」とあって、琴古流の奏者に吹いてみなさいと言えば、その奏者は三つの音を出して吹き始めることになります。まずは、①レの運指(三・四・五孔閉じ)の状態で息を入れて、音が出始めるときの立ち上がり。音高はもちろんレです。②そのレ音が立ち上がるや否やで、四孔を素早く開け(引き続き音は出ていますが、この状態や音高を指す名称はありません)、③やはり素早く閉じてレの運指に戻し、ようやくレの連続音が始まります。つまり琴古流のレとは、レの運指で吹き始め、そこから四孔を素早く開閉する=「打つ」ことで発音されるのです。この開閉動作を「アタリ」と言いますが、琴古流においては、基本的にすべての音の頭にこのアタリをつけることを約束ごととしています。

 対する都山流の「レ」は、アタリなし、レの運指の状態で息を吹き込み、そのまま音を立ち上げるのが基本ルールです。音の前に「ポン」や「スポン」というニュアンスの打音が入る琴古流に対して、なめらかに音が立ち上がる都山流。これが琴古流と都山流の、運指上の最大の差異であると言えるでしょう(もちろん例外は多々ありますが、これについては一部後述します)。

 この両者それぞれの運指を想像していただければ分かるとおり、アタリの有無によって、琴古流・都山流には、音表現をする上での「条件の違い」がいくつかあらわれることになります。
琴古流は、アタリという打音「打閉音」≒アタックから音を始める、つまり、目的の音が正しく発音された時点で既にある程度以上の音量になっている、という条件から、ピアニッシシモから一音を立ち上げていくような表現が用いられることはほぼありません(「ナヤシ(萎やし)」という、アタリを用いない音の立ち上げ技法がありますが、これは音程の移動を伴います)。また、同じく打音打閉音から始まるという条件から、アタリをアタックやアクセントとして用いる力強い吹き始め方は得意、ということになります。都山は逆に、継ぎ目のない滑らかな立ち上げ表現を得意とする、ということになるでしょう。

 また、上記アタリと類似の技法として、「押し送り」というものがあります。これは、発せられている音から次の音へ移るときに、アタリと同様の素早い「閉→開→閉」アクションで特定の孔を打ち開閉し、区切り・アクセントを付ける技法です。これについても、琴古は音から音へのすべての移動(もしくは連続)時に押し送りを行うのが原則。対する都山は、同じ音の連続時には押し送りを行いますが、運指が異なる音へ移動するときは基本的に押し送りが要りません。アタリの有無とともに、この差異もまた、琴古と都山それぞれの吹奏を規定するいち条件となっています。

 さらに、「ハズミ(弾み・勢み)」と呼ばれる、三絃の「ツトン」を尺八に移した琴古流の技法。これなどは有り無しによって三曲合奏時の聴き手の印象がガラリと変わるほどの、アタリを単発技とするなら連続技・イディオムと云える技法ですが、単位として旋律に近い音の連なりですので、重要な差異ではありますがここでは詳説を避けます。

 さて、都山・琴古の上記の違いからおのずと導かれるのは、アタリや押し送りなどの “余計な” アクションを “必ず” 行わなければならない琴古流は、必然的に、吹奏可能なパッセージの速度限界が都山より低くなる、という道理です。平たく言えば「あくまで古典の運指上、琴古は速弾き(速吹き)が都山より苦手」ということになります。もちろん、ごく乱暴な一般論ではありますが。たとえば「ロツレチ」という旋律があったとして、開か閉、どちらか一方向への一本の指の運動を1モーションと数えるなら、都山がこの4音に対して3モーションで吹奏できるのに対して、琴古は11モーション、都山の4倍近い数の動作が必要になるのですから、ほかがイコールコンディションであれば琴古流の運指の速度限界が低くなるのは自然なことです。このことが、両者の地唄・箏曲における尺八手付(=箏・三絃の旋律を合奏尺八のために採譜する)にも大きな差異をもたらしたと考えるのはごく当然のことでしょう。

 琴古と都山の運指ルールが「なぜ、どこから違っていったのか」を考えるのも音楽史的に興味深いことですが、私のごとき半可通がさわっていいテーマではありません。ただ個人的には、まったくの印象論的な憶測をもって「虚無僧本曲を根幹とし、その保守を志向する琴古流と、同じく虚無僧本曲に始まりながら、そこからの解放を志向した都山流」という方向の違いから生まれた運指の差異であろうと思いなしています。もちろんこのベクトル差は、運指の違いのみならず、尺八手付における旋律的嗜好・傾向の差としても歴然とあらわれているはずです。

 本日、都山・琴古で同じ曲を聴いていただく六段の調・黒髪について、両者でどのように尺八手付が異なるのかは、ただ聴いていただきさえすれば瞭然。聴き手の印象として判断していただければ十分のこととして、ここでその差異を並べ立てることにさほどの意義はなく、音楽的な課題はどこまでいっても流派不問の「どう吹くか」であろうと考えます。が、「異なる手付の傾向がなぜ生まれたのか」については、上記のような、旋律の嗜好とは別種のいわばフィジカルな差異が、おそらくは色濃く影響しているであろうと。そのことを、特に尺八を吹かないみなさまにも知っていただきたいと考え、本雑文を記す次第です。

 なお、ここまできてちゃぶ台をひっくり返すようですが、現代の都山流の奏者はアタリをごく普通に使います。ただ、それはあくまで奏者が自由意志で加えるアクセントとしてのアタリであり、琴古流のように、原則だからすべてアタるということではありません。なぜそのような、ある意味 “劇的” な変革が起こったかは、やはり検証しようのないことですが、1960年代以降にジャンルとして花開いたいわゆる現代邦楽において、流派やローカリティを越えた尺八奏者の交流が進んだ結果、たとえば都山流はアタリの効用を知り、琴古流は都山譜(や五線譜)の汎用性の高さや、現代的なパッセージにおけるアタリ省略の有用性を知った、そんな変化があちこちで起きていただろう時代の流れは容易に想像できます。

 かつては都山流がアタリを使うと「あれはトキン流(山と古のミックス)だ」などと揶揄されたと聞きますが、私見ながらそのトキン流こそは、抽象の美を目指す音楽の徒として、きっと正しい志向だろうと考えます。そして、都山流がアタリに美的メリットを見、いわば旨い薬味としてすでに自家薬籠へ取り入れているのに対し、琴古流が「ほらみろ、アタリはいいものなんだ」とばかりあらゆる音をアタるのは、「本当は」芸術に適う姿勢とは言い難いとも思っています。実際、ここは繊細にやりたいのにアタリが自分の耳にもキツいな…と思えるフレーズは、地歌・箏曲はもちろん琴古流本曲にさえ散見されるのです。ただ、「ならばうるさくせずアタれるように精進せよ」も理屈ですし、恣意的にアタリを間引いてよし、とももちろん思えず、その基準やルールをどのように定めたものだろうと思案しつつ、私はまだ今のところ、古典のすべての音をポン、スポンとアタって吹いています。すなわち、道中。

(注:7月12日に赤字個所を訂正。理由は次項「『アタリについて』訂正」に記す。「打閉音」は筆者の造語)

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河宮拓郎(カワミヤタクオ)
性別:
非公開

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