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いずこじ

陰陽、笹の葉、風の色。琴古流尺八、道中甲有り呂有り。

なんでもあり/これしかない

妻の勤め先で催されたワークショップに誘われ、どうやら現代音楽らしい試みの「材料」になってきた。


LX100 床に転がっているのは配線とペットボトル以外みな楽器だ。三つの白っぽい箱(それぞれが異なる楽器)を操作しているのがダトゥ・アレジャーノさん、左上を歩いているのがダヤン・イラオラさん。ともに、フロム・フィリピン。


詳細はこちら。ゲストお二人のプロフィールに出てくる「メディアとしてのプロセス」「アート実践における生態学」「視覚芸術と舞台芸術における複数のコンテキスト」などのワードががもうチンプンカンプン。トークももちろん英語オンリーで8割方チンプンカンプン。

私が参加したのは、トーク+パフォーマンスのなかで行われた即興演奏。お二人が用意したキテレツでアーティスティックな楽器群と、参加者が持ち寄った楽器、または音の出るものを、刻々と変わるルールに従いつつ自由に演奏もしくは発音させるという、場当たり的なようでいて意義深そうな音楽生成のパフォーマンスなんである。「我々は曲を演奏するんですか? 音を出せばいいんですか?」と尋ねると、どちらでもいいのです、とのこと。ああ、自由すぎてもうアカン。

上記、三つの白い箱を含め、床にセットされていた楽器は概ねテルミンと明和電機をさまざまな分量で混ぜ合わせたような、つまり明確なコントロール基準がなく、どんな音が出るかは多く偶然が司るというタイプの電子楽器。ほか、トロンボーン構造を持つフィリピンの小さな竹笛、同じくフィリピンの口琴、オカリナ、参加者が持ち寄ったのは我が本曲八寸の他に、巨大で非常に美しい仕上げのディジュリドゥ、トランペット(ミュート付き)、磬子(きんす)、あとバリンビンというフィリピンの竹製打楽器をビインビインと鳴らしている人もいた。〆て10人ばかり。

持続音で幅のあるメロディを奏で得るのはトランペットと竹のみだが、ペットの方は単音を細~く出すことにしたらしく、となると竹を除いては、ノイジーなアクセントはさまざま入るもののトータルなんだか声明チック。そこへ、では鹿の遠音をひと節、などとやっては、なんだか竹のためのお膳立てのようになってしまうなァと、こちらも控えめにコロコロだのツレツレだのppの五のハだの呂ロのユリだのナヤシだの、なんだかよく分からない音を出していた。そもそもアタリの音でさえ異質に立ちすぎる。

などと、きっとお互いに手探りと遠慮を交錯させつつ即興演奏は終わった。こちらに手応えは一切ないが、ゲストお二人は満足げだ。演奏か演奏でないかと問われればたしかに演奏であったし、正解が無いことは分かりつつ、これでいいのかしら? 現代音楽をのっこんで聴いたことなど(おなじみ邦楽絡みの数作を除けば)なく、漫画「ミュジコフィリア」で「ふーん、こんな感じの世界か」とぼんやり知っていたのみ。イヤハヤ、私の知る音楽とはずいぶん違うそれもあったもんだ。これは「曲」なのか? であれば、「いい曲」や「不出来な曲」はあるのか?

…というモヤモヤを、磬子をクォーンと叩いて参加者の笑いを誘っていた多少罰当たりな妻にあとで伝えると、いいも悪いもないし、音楽ができない人も参加できるし、それでエエんやないの、と。なるほど。しかし、並の人より歌えたり楽器を演奏できたりという “珍しい” 人間がやるからこそ音楽は特別なものたり得る、という個人的な思いとは若干食い違う。偶然の産物も確かに音楽ではあるし、多数の不思議な楽器を交えての音楽生成は「ザラにあることではない」という意味で特別ではある。それでも、高処を、花深き処を目指すものではないというベクトルに特段惹かれるところはない私であるなァと毎度の狭量。難解な学問的音楽や未聴感の演出方法をたくさん身につけながら、彼らはどこを目指すのだろうか。それとも、生みっぱなしの音楽をそこら中に置き去りながらいずこでもないところへ行ってしまうのだろうか。


LX100 「白い箱」のひとつ。むき出しの9V電池が渋い。盤上の小石を任意のポイントに配置する、また右下のスイッチを押すことで音色や音高は変化するが、基本的にはデジタルでノイジーでアブストラクトな連続音を奏でる。

帰って、すぐに竹を取り出し本曲と地歌をボウボウ吹いた。ろくに吹いていないのになんだか疲れた気分になってしまったのをリセットしたかったのだ。いや、貴重な体験であった。
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HN:
河宮拓郎(カワミヤタクオ)
性別:
非公開

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