リスタートを誓っておきながら、「琴古流尺八楽典綱要」の緒言が気になる。
緒言 竹道を文字に仮託して典範を世に傳へんとせば、尠なくも調子、拍子、楽譜、奏法、曲目、工夫、練想、歴史、他音楽との比較研究、製管法、等数多の項目に亘りて其の綱要を掲げ、夫を解説し論議し商量せざる可らず、如斯は到底短日月の能くする處にあらず、素より予の浅識菲才なる猶一層の潜志(★1)
と奮励とを以て研究するに非ずんば、斯業大成の重任に堪ゆる能はざるは言を俟たず、然も予や今楽譜新刊の業切々として迫り復た他を顧るの暇なし、故に本書は其綱要と解説の一端とを掲げ、以て初学者焦眉の急に資せるのみ、詳細は是れを他日に譲るの止むを得ざるを遺憾とするものなり、然り而して近時斯道の隆盛に伴ひ、独習又は通信教授の類続出すと雖ども、此種の如きは概ね利害相半するものにして、一面より之れを観れば蓋し初学者を誤ること尠なしとせず、夫れ竹道を世に傅へんが為めに夫を文字に表はすの業は、之れ即ち仮託の業にして必然的のものには非ざるなり、言説を以てするも亦然り、更に達観すれば実に師と雖も亦復一種の仮託に過ぎず、然らば問はん奈何んか是れ必然的に竹道を傅ふるの道ぞ、曰く以心傅心……若し之れに加ふるに贅註を以てすれば、即ち覚に始まり悟に到るの謂なり、去れば本書の如きは単に尺八科学の梗概のみ、而して本書を以て科学以外幽玄にして、而も無辺なる斯道に擬するは、恰も日月を表示するに燈火を以てしたるに似たらんか、到底完璧を期する能はざるは瞭らかなり、願はくは本書を用いらるゝ処の諸彦は、直接に専門家又は斯道に造詣深き士に就きて其の欠を補はれんことを。
大 正 四 年 孟 春 千 代 田 城 址(★2)
の 寓 居 に 於 て 川 瀬 順 輔 識
★1)「潜」に正読の自信なし。「潜志」という言葉にも馴染みがない。
★2)「址」に正読の自信なし。
気鋭の初代家元が、いわば当流尺八の教科書を著す。その緒言であるのだから「これを読まずして」とでもやれば威勢のいいところ、書いてあるのは、つづめれば「書き切れんし、書き切れるもんでもないし、ごめんやで」の繰り返し。「師と雖も亦復一種の仮託に過ぎず」とは、宗家としては明らかに踏み込みすぎてニヒリスティックですらある。
音を出すのが楽器なのだから、その奥義を文字で伝えきることなど不可能であるとは誰にでも分かる。初学入門手引きも同様だが、簡潔なルールブックでさえあればそれでいいのだ。なのに、長々とムツカシイ言葉を並べ、さまざまのやや大仰な比喩を使ってエクスキューズするところに、この当時40代半ばであった(今の私より年下!)初代の「それでも行間を、尺八の奥深さを伝えたい」のアツい思いが滲んで微笑ましい。
しかし今にして思えば、文字で残せるハウツーは無理を承知で可能な限り残していただきたかった。楽譜出版で忙しかった当時はともかく、90歳まで長生きされたとか、その合間にでも。当時の当たり前と今の当たり前が同じであるはずはない。一般論として伝言ゲームは必ずうまくいかないし、まして変転を宿命づけられた琴古流においてをや。「尠なくも」初代がどんなつもりで竹を吹き、孔を打ち、メリ・カリ・ナヤシを行っていたのか。たとえ精神論に傾いても、断片であっても、その幻の続・楽典綱要を読んだうえであったなら、SP音源のやむを得ざるペラペラな音もさぞ滋味あふれる果肉を纏って聞こえよう。惜しい。
あれ、考えてみれば、こういうテキスト、他の社中にもあるのかしら。こんどあの人やあの人に訊いてみよう。“社外秘” かもしれないけれど。
K-5Ⅱs
そして、楽典綱要のような親切極まる資料などない時代の尺八楽を、名だたる古管と直接・間接の取材、さらに旺盛な妄想力で復元していくのが、畏友・國見政之輔君。私などより万倍知られた人間を宣伝するのもおかしな話ながら、インプットを溜めこむだけ溜めこみ、今春ようやく重い腰を上げた彼の
ブログは、竹吹きならば一読、ひとつの常識、或いは斯道の歴史を語るときの前提の一部として海馬に刻むべき、貴重な資料と見解の玉手箱であると思う。
さて、次こそは。