忍者ブログ

いずこじ

陰陽、笹の葉、風の色。琴古流尺八、道中甲有り呂有り。

ベカラズ・アゲイン

電波デビューの遠音について、ちらほらと感想・鞭撻をいただいているところであるが、師匠からのダメ出しラッシュを除いて最も嬉しかったのは、我が吹き料の製作者である田中忠輔さんから「太い竹であのように吹ければまずは良し」と(師匠伝てに)言っていただいたことだった。

以前にも書いたが、私の拙い本曲は、半分が師匠の音楽、もう半分が忠輔さんの楽器の音色でできており、私自身にはそれらの容れもの、あるいは再生装置ほどの値打ちしかない。だから忠輔さんに褒めてもらえるということは、本曲の半分が少なくとも赤点ではない、くらいの評価が得られたのと同様だ。これを喜ばずして何とする。

思えば、本曲竹に先立って後輩から譲ってもらった忠輔さんの、おそらく平成改元前後の作(今の三曲竹)のみを使っていた2012年後半、私は師匠とこんなやりとりをしていた。

・・・・・

2月の舞台から入れ歯はこの竹に絞ります。ただ、信頼できる某さんのところで年末に指孔の位置だけは軽く調整してもらおうかと。内径は一切いじりません。

『指孔の位置だけは軽く調整』の件心配。何の音? 弄ると全体が壊れることもある。アケヒ? ツ? チ? 吹き手は製管師ではないし、本郷(注:私が2012年8月に本郷・求道会館で催した尺八勉強会)での破綻はないし、何が問題? 何年かけてもふきこなせないほどの?

ヒ五が高い・低い、チが高いのは琴古らしさですし、アゴでなんとかなるんですが、ツが飛び抜けて低く、うんとカらないと糸と合わないんです。ちなみにレは高めなので、ツレは正確にやるなら大カリ→中メリ感覚となります。吹くうちに無意識に補正するようにはなりますが、手事では間に合わないのと(早ければ聞き流せる範囲ですが)、パッと持ち換えたときにまともに吹けなくなります。
ただ、バランスが崩れるかもというのは私も怖れるところでして、まだ持って行けずにいます。ツメリはとてもいい音ですし。ツを「クセと呼べる範囲で低い」程度に上げてもらえればいいのですが、私の感覚が伝わる保証はないですしね…。迷っています。
この竹を入れ歯にするのに少しためらいがあるとすれば、そのもうひとつの理由は、この竹がすごく息を使わせることです。残月前歌冒頭、ハラロの後のツレレレが一息で吹けません。三曲はまだいいのですが、本曲が厳しい。これまでのフレージングをかなり捨てることになります(それがナンボのもんじゃい、ですが)。
とは言え、まだ手に入れて半年。しばらくこのまま吹いてみたほうがいいのかなと、いま書いているうちに思えてきました。私自身、古管に手孔修正の跡を見るとがっかりしますし。(後略)

明解な希望了解。間に合って良かった。田中さん宅へ一緒に行きます。予定調整は改めて。希望通りにその場で直してもらいましょう。

ありがとうございます。たしかにイジるなら作者に頼むのが筋ですが、直接買ったわけでなく、尻込みしておりました。
ではそれまでにせいぜい吹き込んで、どうしても直したい範囲を見定めておきます。2月の舞台はひとまずこのまま。
息が要る云々は覚悟の問題、すべてを満たす竹はないと理解はしております。また、冬でも好調であるほどクセが引っ込むこと、舞台の濃密な時空の中でならより容易に補正が利くことも勉強会で体感しています(ゆえによけい迷うのですが)。

本来笛師は吹き手が抱えたもの。吹き手の希望に応えるのが腕。息が要るは太造りのせいで、音色と音幅に深く係わり、花深き処。故に甲斐あり。

余談ながら、この竹の傾向は某先生のそれと似ているのではないかと思います。先生はツレを、あたかもカリからメリへと背中を丸め込むように吹いていました(すべてのツレがそうではなかった気もしますが)。あれは気持ちを乗せるためのアクションだとばかり思っていましたが、必要にかられてでもあるのかなと。また、息をやたら食うのも共通しています。
その当否はともかく、あの竹で好調のときはなんだか(私の音幅の中では)某先生に近い音がして、内心微笑ましい気分になります。長らくよその竹で全然違う音を吹いてきて、20数年経ってここにいるというのが、もののあはれだなと。
あと、あの竹の特徴がもうひとつありました。呂ロが猛烈に安定せず、すぐ裏返ります。ただこれは、ビーッと無神経にロを鳴らすのを防いでくれますし、おそらくは慣れの範疇。またどう考えても他の音や全体の色と関連しているはずなので、このままでなければならないと考えています。

余談も肝要。直しが竹にあるのか吹き手にあるのかも含めて、田中さん処で面談しましょう。某々先生のツレもツはカって作ってますね。製管師が音程確かに作ったものなら、不揃いになるのは息のいれかたの違いもあらむ。他社中の竹が鳴らないのは当然のことであった。誰が吹いても鳴る竹の出現で失ったものは大きい。
個性を凡庸に堕すのは愚。更に、うっかり自分の肉体が不変なんぞと置いた日には竹の迷惑、成長&劣化、朝夕の変化も知るところ。そこに竹を弄る怖さがある。先ずは日々吹き込んで竹のご機嫌を伺い倒して!

大いに了解しました。これまでにも竹をイジって後悔したことは一再ならずあるのに、いざ新たな問題を前にすると竹のせいにしてしまうのは、我ながらどういうメンタリティなんでしょうか。とまれ、吹きます。

諾。

※太字化は引用者。


K-5Ⅱs

実に危ういところだった。このとき三曲竹を田中さん以外の職人さんに直してもらっていたら、目下チーム・カワミヤ(監督:師匠/メカニック:忠輔さん)が向かおうとしている「前人未踏の琴古流」への志向は決して生まれなかったろう。幸い、師匠に付き添われて田中さんを訪ね、学生時分以来、というかほとんど初めて忠輔さんとまともにお話をして、「あ、そういう思いでつくっておられるのなら直すには及ばない、というより、直してはいけない」と修理を引っ込めることになった。そして師匠の言った通り、私は三曲竹のほとんどのクセに数年で慣れた。あるいは、正しい吹き方を身につけることでクセはクセで無くなっていった。「息を使わせる」などと寝言を書いているが、馴染んでしまえばこの竹ほど息の要らぬ楽器も少ないのではないかと思える。つまり本曲竹では(絶好調時を除き)いまだ大いに息が要るわけで、もろもろ、道半ばではある。

とまれ、これをきっかけにようやく竹の面倒を見ていただくようになった忠輔さんからは、このあと(長らく売り物にしていなかった)九寸管を譲っていただき、そして2014年、とうとう私は本曲竹と出合うことになる。この竹がなければ私はいつまでたっても一二三を吹き通すことすらできず、師匠も私のレベルに合わせた教え方を採らざるを得ず、そんな調子では、おそらくは熊本の入賞もNHKオーディションの合格もなかった。私の中で「竹はイジるな」が金科玉条となった理由と経緯、その一端である。

このあらすじと撞着するようだが、ごく最近、三曲竹を忠輔さんにさわってもらった。早いもので7年吹いてきて、その初めから気になっていた部分、しかし、もちろん直すつもりは無く、修練不足、あるいは音色と引き替えの詮方ないことと諦めていた竹のクセについて、ついに師匠から「田中さんに相談してみたら?」と助言をいただいたからだ。工房を訪ねて忠輔さんに試奏してもらうと、ああ、私が吹くより強くクセが出ている。未熟のせいばかりではなかったか。「ここがこうなんじゃないかな。いろんなつくり方をしてきたからね」とあっさりおっしゃるのに、このクセ以外のすべてを気に入っているのでどうかひとつ、と要らぬ念を押して預けた。数日で戻ってきた竹は、善哉。クセだけを除くというのはどだい無理な話と分かっているが、それにかなり近い仕上がり。

もっと早く直しておけばよかった、ではない。相応の期間吹き込んで、それでもどうにもならない見込みが強まったところで、私の音に私より詳しい、しかも同じく改作に否定的な師匠の言からのなりゆき、それが大事だったのだと思う。めでたくクセのおおかたが取れたこの竹にキッチリ慣れるにも、1年やそこらはかかる。やはり竹はイジるべきではないし、ちゃんと吹けない、吹いて気分よくなれない竹なら、他人の評価や市場価値などに関係なく、その竹はあなたに合わないのだからよそに譲るべきだ。これは、そうした判断を任せるに足る師匠、またはそれにあたるコーチ役が近くに居ての話。独り決めなら何をかいわんや、メリの出ないバンブーフルートを三曲に用いてチの不協和音を奏でようと、古童管に孔を足してジャズを吹こうとご随意に。イジるなと言ったって、イジりたがるひとりぼっちを止めることなどできはしない。

私はその点、斯道に入った瞬間に、持て余すほどの幸運を授かっていたことになる。いったいこれはどういう巡り合わせなんだろう。次は師匠からの及第点、そしていつかは、音色と音楽、両方で満点を取らなければならない。時は短い。否、先達の言葉を借りれば「貧乏極楽、長生きするよ」「せくないそぐな来世もあるよ」か。
PR

コメント

プロフィール

HN:
河宮拓郎(カワミヤタクオ)
性別:
非公開

P R