ちょっと細かい話をする。細かい話とは、大事な話ということだ。
琴古流の代表的な装飾音のひとつ、「ハロ」。運指上、この「ハ」は二四五のハ、つまりリと同律。よって、ハロは音高的にはリロと同じである。だから、リロと聞こえるハロを吹くのが “本来” ではあるのだが、実際にはハロのハを正確にリの音高で吹いている人は少数派、多くの人はもっと高い音で吹いていると思われる。チューナーで計測してウラを取ったわけではないが、感覚的にはロのメリ以下、リ以上の微妙なところで。
この微妙に高いハは、厳密に言えば運指にもとる音である。しかし、聞いて不快な不協和音を奏でる音でもない。言ってみれば「オッケー」な音。いやむしろ、リロ律のハロがやや教科書体的で四角四面な印象であるのに対し、この高めのハによるハロは、少し崩した、洒脱で柔らかな響きを持つと云えるかもしれない。竹方は、ハは正しくはリの音でなければならないと理解しつつも、きっと「この音で糸にうまくハマっているから、これでよかろう、許容範囲」と生理的・不文律的にハの音を定めている。
ここで横道に逸れると、糸方の多くはそんな微妙な事情など関知しない。若い時分、春の海の賛助でお声がかかり、糸方の御前稽古に相伴した折、吹き始めるなり「その最初の音(=琴古社の記譜でいうハロ)、正しい音(=音高でいうリロ)で吹いてください」と先生にお叱りを受けた。竹の手を知る糸方にとって、ハロは音高上はリロでなければおかしいのだ(仮定の話として、かの先生がもし都山のハロ、すなわち琴古の運指でいうほぼリロで吹くのを聞き慣れていたならなおさら耳障りだったろう)。もっとも、おそらく当時の私は「オッケーのハ」よりさらに高いハで吹いていたはずで、先生がすぐに曲を止めたのも当然至極ではあるのだが。
そう、問題は「オッケーのハよりさらに高いハ」だ。この、糸はおろか竹の生理からしても高すぎる、許容範囲を逸脱したハでハロを吹いている人が少なからず居る。もちろんその内訳は、メリの未熟さゆえに音を下げきれていないという人が大半だろう。糸の先生に叱られた私もそうだった。つまり「ヘタクソだからしょうがない」なのだが、この外れすぎたハで吹いている人が、どうやらプロにも散見されるということをこの数年で認識するようになり、驚いている、というより困惑している。職業演奏家にメリができないわけはない。とすると原因は…。
この高すぎるハは、糸との間にはっきりと不協和音を形成する「悪いハ」だ。二四五のハはメリカリと指の援用によって音高を大きく変えることができる面白い音であるのだが、ゆえにこれと定めた音を出すのが意外なほど難しい。だからとて、地歌を一曲吹けば両手指で勘定できないほど何度も出てくるハロを始終上ずったハで吹いていると、「尺八吹きは音感が悪い」という従前からの、かつある意味・ある程度において当たっている指摘をますます覆し難しくなる。正しい音、少なくともオッケーの音を心がけたいものだ。他人事ではなく、自戒として。メリカリの自由度から個性的な表現が可能な運指「リヒ五」「ハラロ」などももちろん同様。最低限、糸の音高にきっちりシンクロさせる技量を蓄え、そのうえで、さらにゆかしい「オッケー」があればそちらを採ればいい。
ところで、本曲を吹くときのハロも、もちろんリロの音で吹くべきものではあるのだが、こちらはもう完全に放し飼いというか、個人の裁量に任されているかのようだ。独奏を旨とする本曲であれば、律の正確さは二の次という感覚の人も多かろうし、よほどの狂いがない限り吹き手の「色」にもなり得る。ハロに限らず、本曲の大家と評される人々のツレ、すなわちツメツレの頭のツメを聴き比べれば、それは容易に分かる。それでいいか悪いかはケースバイケースとして、曲想や音味を措いてまで音高でどうこう言う種類の音楽ではないのだ。いや、ないのだろう。
K-5Ⅱs チェンナイの、とある食堂の厨房。なんたる…なんたる…。ハエを100匹は見たこの店が、旨い。
こんなことを考えるのも、季節変わりに伴って我が三曲八寸の律も自動更新の真っ只中であるがためだ。特に「ヒ五」と、「ハラロ」のハからのカリ上げ、その音高と遷移の特性が三月四月とはだいぶ違う。ほどなく慣れて、正しい律に戻していける(おそらく)のだが。
書けば書くほど自分の首が絞まっていくような気もするが、エイ、どのみち針の穴を通さねば竹は鳴らない、成らないのだ。絞まっていこう。