以前にも書いたが、「尺八の音」のアイデンティティの大半は音のアタマ、立ち上がりに備わっている。残りのまた大半は例の「笹の葉」構造で膨らむ(膨らませる)単音の構造にあり、倍音成分でα波がどうしたとか、竹によって人によって音色音味が違うだとか、そのあたりのことはウェイトとしては「細かいこと」に含まれる。というのが私の考えだ。もちろん、細かいことは当然とても大事なこと(ゆえに、それらをテーマに昨夏「尺八・風の色」という会を持った)だが、あくまで分かる人にとって大事なのであって、尺八と他の管楽器の音をまず区別するときに何がよりどころになるかと考えるとき、人に最も「尺八らしさ」を感じさせるのは、やはり音のアタマだろうと思う。
で、琴古流の場合、音のアタマとは、ほとんどイコールで「アタリ」である。いや、アタリであるはずだと私は考えてきたのだが…。
ここのところテレビや舞台で琴古流の奏者が古典を吹くのを聴いて観ていると、どうもフレーズアタマのアタリを行っていない人が、それなりの割合でいるようだ。目を外しているときに、あれ、琴古のはずなのにアタリが聞こえないなと気づいて手元を注視するのだが、聞こえないのだから当然のことながら、指はアタっていない。いや、たまにアタリ損ねたようにかすかに動いていることもある。吹いているのは、山の麓から頂までさまざま。邦楽的引きこもりが暗い部屋で膝を抱えているうちに、ヨノナカの琴古流はアタリを捨て始めたのだろうか?
芸は一代、世につれ人につれ、変転していくのが琴古流の宿命とどこかに書いた。だから、琴古流の多くの人がアタリを捨てたいと望み、それを実行するなら、お好きに、とは思う。思うが、捨てるのならば、ツレもウヒもハロも置いていくのが道理だろうとも考える。これらはすべてアタリもしくはアタリの変形であるからだ。
タンギングこそ使わなくとも、レ~とアタリなしで音を立ち上げたなら、こちらは「あ、そういう吹き方ね」と(多少思うところありながらも)納得する。それが途中で突然ウヒとやられると、「おっと、どっちから来なすった」と内心ズッコケてしまう。ウヒは強勢を置くための道具ではなく、アタリという運指ルールのひとつだ。強勢という奏者の表現は、運指によらず音に籠める気合いであらわすべきで、“ちょいと拝借” は姑息にさえ映る。こういう吹き方をする人は、たとえば長らく継がれてきた「わが家の味」のだしがどんな材料でどうとられているかを知らないようなものではないだろうか。狭量? たしかに。しかし、分かるは分けるだ。
たとえば、山口五郎先生はツレを私の云うリツレでも吹いたし、ツの指から二孔を開けるツレでも吹いた。しかしこの “アタリなし風” のツレが五郎先生独自の工夫によるリツレの変形(主に強すぎるアタックを和らげるための)であることは明らかであるし、逆に、たとえばハロも「指の素早い開閉」というアタリの条件を備えてはいない。ツレが個人の発明だったとして、決してアタリから外れているわけではないのだ(ただし、アレが五郎先生もしくは四郎先生の発明でなかったとしたら、誰の考案であるのか分からないのが浅学のツラいところだ)。
とまれ、「アタるのが琴古流」という私にとってのアタリマエが変容しつつある。それが現在であるらしい。「たぶんこういうことだろう」という理由や事情はいくらも思いつくが、いずれも確証なく、また明らかにしたところで、という話。また、個人的にはこれを憂慮し、悲しむものではあるが、面前でそのように吹かれたら一応「なるほど」という顔をしておく。要らないなら捨てればいい。でも、まだ使えそうだと中途半端に捨て残した古いものを新しいものと不用意に混ぜるとき、昭和のオッサンは一瞬クワッと目をむき眉間にシワを寄せるのだ。観客席で、テレビの前で目をむいても、なんの意味もないけれど。
K-5Ⅱs ペットボトルかァとは思うが、墓前にワンカップ、と大差ないか。