今さらだが年が明けた。感覚的には昨年の正月から4カ月ほどしか経っていないが、「年忘れ」だの「新春」だのとカンムリの付いたテレビ番組を飽きるほど見たので間違いはないだろう。師走の24・25日とよりにもよって浮世が喧しい2日間、九十九里で愉し厳しの稽古をつけていただいたこともあってカレンダー感覚が狂い、若干の浦島現象が起きているようだ。まあもともと私の体内カレンダーはデタラメだが。
末の契である。
この曲を、5月25日(土)の第15回「有楽伯」(紀尾井小ホールにて16時開演。告知は日程が近づいたら改めて)において、三曲合奏で舞台にのせる。スエチに決まったのはもろもろの経緯あってのことだが、私は「いよいよこの曲と」と独り戦慄している。
初めて舞台で吹いたのは大学2年の時、早大虚竹会の定期演奏会(会場は、2010年に閉館したらしい銀座小劇場)だった。思い出すのも恥ずかしいが、半年前にいきなり鳴り始めた竹をサア聴いてくださいとばかり、力任せにマクラを吹き散らしていた愚かしさ。それは問題外としても、以後も何度か、そして、京都での結婚披露宴でも東京での披露パーティーでも、家内と、媒酌人の先生とで末の契を演奏した(歌詞の内容がTPOに適うかどうかはともかく)。これが、早いものでもう15年余りも前のこと。
つまり、結構吹いているし、なんならハタチの冬から常に半暗譜状態だ。しかし一度たりとも曲を「つかんだ」感覚がない。手が難しいということはない。あくまで譜面上の技巧においてなら、千鳥の曲とどっこいというところだろう。しかし、手の通りに吹いてみても曲にならず、どうしても違和感が残る。若い時分は「パートパートの旋律は素晴らしいのに、どこかヘンな曲だなあ」と思うばかりだったが、近頃ようよう、この曲の特殊性が分かってきたように思う。以下、私見にして、もしそれが正解だったとしても、例によって分かっている人にはナニヲイマサラの事柄である。
末の契は、手練手管を尽くして「表拍をとらせない」ように作られている。そして恐ろしいことに、表拍をとれなくてもなんとなく弾きおおせるように、これまたあえて作られている。なんのためか。これは妄想の範疇だが、表裏の取り違えに気づかない未熟を嗤う、ごく洗練された芸術的イケズを楽しむためではないか。穿てば、技巧や転調に難度を持たせず、手事ものとしては簡潔な構成で短めの曲に仕立てられたこともまた、そのイケズを際立たせるための仕掛けと見ることができる。
以下、地歌の曲そのものについての話であるにもかかわらず竹譜(青譜)に準拠しての音名表記のみで恐縮だが、私がこれしか読み書きできないのであしからず。なお、
緑字はメリや装飾など拍に絡まない音名表記。
赤字は表拍の音。
曲のアタマ、「白浪の」後のシャン。このシャンを青譜では吹かないが、都山ではロで吹く。で、青譜はそのシャンを見送って次の甲ツ
メから吹き始めるのだが、それに先だって3/4拍目から歌を拾う装飾の
二四五ハ(リ律)が付くので、のっけから拍はとりにくいったらない。と、これはただの竹の事情だが、肝心なのはそのあと。「
ハツ(1拍)
ハロ(1拍)
ヒレ(半拍)」と表で来て
ヒレの裏でツが入る。これが序盤にしては性急で、たださえ表裏をとりにくい小間の感覚を狂わせるのだ。これを端緒に、この「半拍で切り上げて裏から入る」という手法を何度も用いることにより、松浦検校は、冗漫を排する…というポーズをとりつつ奏者の拍感覚を惑わせ、フルイにかけていく…ように感じられる。
竹譜なので三絃の手とは違うことを承知しつつ、「裏入り」の数の目安としてのみ青譜の1頁目からザッと抽出列挙すると…。
・2行目中ほどの
ツレ
・その6拍後の
ツレ
・3行目中ほどのレ
・その3拍後のツ
・その3拍後のリ
・その4拍後のツ
・4行目下のリ
見よ、この連続足払い。
2頁目からは曲がのり、手が込むほどに旋律は大間的になって表を捕まえやすくなるはずが、今度はその旋律で化かしにくる。例えば2行目の「ツ
メレ
ツメロゝ
リロリウリ
ウレレ
ツレ」などは、“ベタな地歌感覚” からすればいかにも表から始まりそうな旋律なのだが、見ての通り、裏から入る。この旋律で赤字を表と捉えて表現するのは、表始まりの旋律パターンとして耳馴染みがいいだけに劇的に難しい。そして、3頁2行目の、裏から入る「チ
メゝ
レツ
メロリ
ロゝ・ツ
メゝロリヒ
五リ
ウ・ツ
メレ
ツメロリヒ
五リ
ウレツレ
ウリロリ
ロ」は、蓋し前歌で最も表をとりにくい難所であろう。前歌がのってから手事に至るまでの間に数回現れる「
レ(半拍)ツ(半拍)
レ(半拍)」或いは「
レ(半拍)ゝ(半拍)
ゝ(半拍)」は、思うに浮き輪だ。「こないでもせんと、あんたら皆溺れまっしゃろ」と検校が関西弁で独りごちたはずもないが、正直なところ、この仕切り直しの踊り場がなければ(拍の感覚において)息をつくこともできない。
裏で遊ぶ、というのであれば、たとえば菊岡検校の笹の露などはその典型例ではあるが、あれは酒の酔いをユーモラスに表現するために裏間を使って「オットット」を演出しているのであり、何度オットットとよろめいても、そのあとは安定感のある表拍主体の旋律に戻る。しかし末の契の場合は、知らないうちに奏者を裏に引っ張り込み、裏を表と勘違いさせたまま弾かせ(吹かせ)ようとするのだから、ずいぶんと人が悪い。いや、その手の込んだいたずらの面白さに感服しているのだけれど。
手事に入れば、ゆったりと表の飛び石を踏ませてくれるのはマクラまで。もちろん裏から入る、調子を変えての「ツ
メレ
チ」以降は、裏入りで騙し、旋律で欺き、手加減なしで猛然と化かしにかかる。例えば5頁2~5行目だ。ここにおいて正しい表裏の拍を感じさせるような演奏が、いま現在どれほどの確率で行われているだろうか。それこそ「パートパートの旋律」を巧く弾き吹く人はアマタいるだろうが、拍においては(もちろん私を含め)実に多くの奏者が程度の差こそあれ化かされていると云ってよい。糸方は歌があるのでまだしも表を辿りやすいかもしれないが、手事ではどうか。
やはり拍の感覚においてフラフラになりながら後歌に辿りつけば、「
ハロ(1拍)
ロ(半拍)」のあとに、ええ、まだ勘弁してもらえないのか…の裏入りで「リ(1拍)
ハツ
メ(1拍)ロ(1拍)ツ
メ(半拍)」と裏のまま引っ張っておいて、あとは(それまでに比べれば)だんだんと表を拾いやすくなっていき、「今日はこんくらいにしといたるわ」のムードで終曲。音の消えたしじまに「まだまだや」と、脳内検校の関西弁が聞こえるような。こんな地歌は知る限り他にない。マクラの相似から小残月とも称されるという末の契だが、今となって残月とどちらが難曲かと問われれば、私は迷わずスエチをとる(どちらが名曲か、ではない。為念)。
そもそも、青譜の著者にしてからが、末の契が異常なほど表裏マジックに満ちみちた曲であることを認識し、あるいはそれに着目していたかどうか、譜を読む限り怪しい。冒頭の「
ハツメ・
ハロ・
ヒレ」については、ままの川の採譜同様、装飾音について思うところがあるのだが、今回は表裏の話であるから措くとして、その数拍あとの、表からの「
ロ(半拍)リ(1拍)
ハツ
メ(半拍)
ロ(1拍)
リウ(1拍)」、この
ハツ
メは断固、
ハという装飾のないツ
メでなければ裏間を表現できない。同様に、1頁2行目最下の裏からの「
ツレ(半拍)
ツロ(半拍)ゝ(半拍)
リウ(1拍)」、この
ツレ(私のよく云う
リツレ)は裏には強すぎるし、
ツロは表を主張するならいったん息を継いで
ハロで仕切り直す方が分かりよい(このようにフレージングを変更するなら当然ブレス位置も変わる)。もちろん私の考えがベストであるわけもないが、青譜のスエチには、このように拍感覚をミスリードしかねない、すなわち表裏の意識が行き届いていないフレージング指定があちこちにある。いや、おそらくは青譜に限らず他社中の琴古譜もおよそ似たようなものだろう。こうなると、都山流は表裏の別を付記しない都山譜でこの曲をどのように教え、吹いているのか、俄然知りたくなってくる。いずれどなたかに尋ねてみよう。
とまれ、こう書いてしまった以上、私は約半年ののち、表裏を捕まえたうえで末の契を吹かねばならぬ。一から曲にせねばならぬ。これまで吹いてきた “化かされスエチ” の拍がアタマにこびりついている現状では、吹くことはおろか表をとりながらの唱譜さえ難しいのだが、どうやら新年だ、などと呆けているオノレに入れる、セルフ初鞭撻である。
K-5 バンコクで迎えた2014年の正月。その翌年8月、この場所で爆弾テロが起きた。
そうそう、私は不勉強にして松浦検校の作曲順を全く知らない。末の契は処女作か、或いは最後の作品だろうと踏んでいるのだが、ご存知の方がいらっしゃれば是非ご教示いただきたい。もう少し細かく言うと、9:1で処女作だと予想する。若き才能と高度なウィットを十全に、というより挑戦的に用いて渾身珠玉の一曲を作ったところ、化かされる人のあまりの多さに内心「おっと、こら遊びが過ぎたかもしらん」とばかり、拍においてはよりとっつきやすい曲を作り始めたのではなかろうかと(もちろん、洒脱の極みたる転調をはじめ技巧的にはどんどん難度を上げてゆくわけだが)。光崎検校もそうだが、神才は往々にして凡才をおちょくるヘキを持つ。そして、神才のおちょくりは往々にして、凡才からすればムゴいイケズだ。
ついでに。末の契については、西洋楽理、特に調性理論に照らして恐ろしく綿密なアナリーゼを試みた論考がネット上にある。「ヘクトパスカル」というホームページ内で、当該論文は
こちら。この文の著者は、私の学生時代に部室を同じゅうしていた三曲サークル・早大竹友会の1年先輩・湯口直也さんだ。もう何年もお会いしていないが、元気でやっておられるだろうか。ちなみに私は西洋音楽の素養が小学生並み(五線譜にはもちろんロツレチを振る)で糸譜も読めないため、この論文を楽理レベルでは理解することができない。無学とは悲しいものだ。