アタリ・押し送りは、基本的に「孔を塞いでいる指を開けて閉める」動作であるが、これをごく細かく分解すると、「ふわりと開けてズバンと閉める」が正しい。「等速でパカッと開けてパタッと閉める」ではない。なんなら、「閉める」は孔に指を「叩きつける」くらいの心持ちでいい。「ふわり」がバックスイング、「ズバン」がスマッシュだ。
これに息を連動させる。ふわりの開孔状態で強い息を入れても音が割れるだけ。ズバンとスマッシュを打ち、孔が塞がると同時に強い息を送る。このタイミングがピタリと合い、丸くヌケのいいアタック音がスポンと出れば、ようやく1回のアタリ・押し送りが仕遂げられたことになる。師匠はしばしば、特にアタリを「振りかぶった撞木」に喩える。上記の勘所をこの阿呆にも分かりやすく伝えるメタファーであると同時に、「鐸の音を偲んで笛を吹く」の言い伝え、琴古流の、もしくは尺八の美学の源流へさかのぼっていく感性がそこにあるものと、私は勝手に解している。それにしても、師の鐸を偲ぶならなぜ同じく鐸で偲ばなかったのだろう?
とまれ、改めてこの大事をなぜ今自らに言い聞かせねばならないか。先生竹の手孔が実に大きいからだ。我が先代の竹とて穴はずいぶん大きかったが、当代ときたら(感覚的には)そのさらに2割増し。手は女性サイズ、指も細めの私であれば、たとえば左小指ならズボッと第一関節まで入ってしまう巨大な五孔を、一発できれいに塞ぐのはなかなか難しい。それを思い知っているから、アタリ・押し送りにビビって妙なアクションに逃げようとするヘキがある。で、締まりのないアタリや歯切れの悪い押し送りをしてしまう。
しかし多くの場合、アタリや押し送りの諸問題は「きれいに塞げていない」ことよりも「大きく思い切りのいい開閉ができていない」に起因する。威力のあるスマッシュがコートに収まっていれば、多少コースがずれたとてそれは “効く” のだ。
経験から、手孔が小さければこの問題はあまり顕在化しない。開と閉が等速パカパカであっても、まあだいたいはアタリらしく聞こえる。ところが、まさしく風穴のように大きな手孔となると、指の微細なアクションの瑕疵が数倍ストレートに音に反映されてしまう。先生竹に慣熟するにつれ、なかなか解決しない問題のいくつかはここに根っこがあると、ようやく最近気づき始めた私の自戒兼備忘録。手孔を留守にすることを恐れてはいけない。大きく留守にして、神速でもって戻ってくればいいのだ。さすれば、晩鐘よろしくアタリが響く。
うまく鐘をつけたときのアタリはもちろん、この忠輔管(いや、よく考えてみれば滋章管だった)の大きな手孔には計り知れないほどの益がある。使いこなすには、ただただ正しい操作をすればいい。簡単で、ふう、難しい。
LX100
「最近、ちょっとうまくなってきたんじゃないですか」。世辞よりは正しき批判が得意なはずの御仁であれば、嬉しい言の葉ではある。ちょっと。
仕込みに足かけ50年、始末に100年か1000年か。世界最悪の人災が二度と起きないよう、論理的に採るべき道を考える。東北を思う時、やれること、やるべきことは、大きくはそれしかない。10年前、テレビから目を離せず、国の終わりを見るようにひたすら鬱々悶々としていたあの長い時間を思い出しつつ。