ひとさまに初学入門手引の手ほどきをする機会があった。こちとらアタらぬ琴古は琴古にあらずくらいに考えている偏屈者であれば、アタリを特にみっちりと。「日の丸の歌」のチゝリゝロゝリ、このリからロを、続けて吹くなら五孔でアタり、息を継ぐならロを二孔でアタって改める。こういうのは初めて聞く人には異様なルールに映るんだろうなあと内心おかしがりながら。
で、その甲のロ、息を継いだら「はい、そこは二孔でアタります」とやって見せようとすると、あれ、おや、うまくスポンとアタリの音がヌケない。甲ロのアタリってこんなに難しかったっけ…と思い返すに、そうか、甲ロの吹き始めって三曲合奏の場ではほぼすべてハロに置き換えて吹いているなあと。柔らかくも強くも発音できるうえに、ロに早めに体重をのせてヤマをつくるにも好適の技法であるから、アタリが割れやすくその後も押しにくい二孔アタリをほとんど使わないのは自然なことではあるのだけど、だからといって甲ロで二孔アタリができない・ヘタクソだ、ではイカンなと。きちんと二孔でアタれることは、ほかの技の成否巧拙にも必ず関係しているはずなのだ。精進。
さても、たとえばリを五で見事スポンと打って、ビョオといい音で鳴らしてくれるのを「うん、その音すごくイイですね」と。しかし、OKを出した音をひとさまがその後どのように扱うかは藪の中。納得することなく天下一のリを求めて探求の長い旅に出るのも、こんなもんでいいのかと歩みを止めるのも自由だ。前にも書いたが、教える/教わるが完璧な伝達になることはあり得ない。それでも、預けたものが予想もしない成果物に化けることがあるかもしれないと思えば、教え伝えることは長い目で見ても面白い。短い目で見ればどうか? 自分の言葉と実演が影響して、目の前の人の音がみるみる変わっていくのだ。これが面白く、嬉しくないなら人間をやめた方がいい。

LX100
甲ロに思うと云えば、甘露煮→釘煮→イカナゴ。もう長らくの例によって、今年も絶望的な不漁なのだろうか。もはや垂水の実家に甘辛い醤油の匂いが立ちこめることもないが、大いに寂しくはある。