しばらくほっぽらかしにしている間に、長々しい卓球バナシからどう尺八に繋げるつもりだったのかおおかた忘れてしまった。以下、要旨のみ。
フィジカルがなくても、必殺のドライブを持っていなくても、相手に決め球さえ打たせなければ中国トップ選手をも倒せる(もちろん「打たせないこと」自体が至難の業であるのだが)。攻撃・守備・台上・フットワーク・クリエイティビティなどで構成される亀の甲グラフがあったとして、攻撃やフットワークが世界レベルで3とか4であっても、守備と台上が10の張本は中国に勝てる。そして「勝てばいいのだ」が卓球だ。張本が世界を獲ったなら、他の選手は均整のとれた強さを目指す必要などなく、張本を倒すために(のみ)入り用な戦い方を身につければいい。それが卓球における「強さ」なのだ。
さて尺八は。「強い」は尺八吹きの評価基準にならないので「すばらしい」と言い換えるとして、また亀の甲の項目立てが難しいけれど、技術・音楽性・体力・楽理の理解・音楽史の理解、あとなんちゃらかんちゃらで無理矢理グラフをこさえたとして、まあどれひとつ欠けたところで「すばらしい」尺八奏者とは言えないだろう。均整は取れていなければならない。しかし、そのグラフは得点や勝敗で数値化できるものではなく、また、何でもできるからすばらしいというわけでもない。評価は絶対値ではなく聴く人それぞれの心に生じるものであり、それは基本的に外からの干渉を受けない。すなわち、吹く側から見ても聞く側から見ても「よければいいのだ」。
古典の一徹者が「あんなチャラチャラした曲を吹きよって」とくさすのも、絶対音感の持ち主が「虚無僧曲なんて音痴の音楽じゃないか」と鼻で笑うのも、各々の勝手だが、ズレている。よければいいのだ。狭い斯界を見渡すだけで、どれだけの名人がいるか。彼らは皆、「いい」の元気玉を持っている。それが、ド素人を含む大多数からの広く浅い「いい」を集めたものであっても、うるさ型の玄人を唸らせて得た狭く深い「いい」であっても、玉の大きさがほぼ同じであれば等価と見なされるだろう。あとはあなたが、私が、どれを、何を「いい」と思うか。それだけのことだ。
K-5Ⅱs
屁理屈をこねくり回していると、どこからともなく声がする。
竹の本質は、音色。この手掛かりは、放さぬように。
そうでした。ハイ。
最後に。「ドカベン」連載終了の報にふと思ったのが、そうか、丹羽ってほぼ殿馬だな、ということ。蛇足ズラ。