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いずこじ

陰陽、笹の葉、風の色。琴古流尺八、道中甲有り呂有り。

ひょろりと始まり、さてどう終わる

某所で、初代黒沢琴古管をさわらせていただいた。うち1本は焼き印、2本は塗り印。いずれも、私の知る近現代の楽器に比べてうんと細く、また肉の薄い竹が使われており、手孔もごく小さい。所有者氏は真贋不明と謙遜しておられたが、それなりの筋から流れてきたものであろうし、仮に3本すべてが贋作だったとしても、そのネタ元たる琴古管がこのようなかたちであったのだろうということは偲ばれる。それで充分、でもある。

もちろん音出しは許されなかったが、吹かずとも「ひょろり」とした音であることは想像がつく。この構造で「押せる」はずがない。吹くなり息が型に嵌められ、ブザーの如く重たい音が機械的に鳴り始め、ほぼオートマで鳴り続ける現代のバンブーフルートとは何もかもが違うだろう。

黒沢琴古はこの位置で竹を吹いた。そして300年ほどを隔てた今や。この2地点の間が、琴古流の全史である。当世、いったいぜんたい何がどうしてこうなったと思えるほどに、音色吹きぶり、すなわち風の色はさまざまに分化し、船頭は多いが船は山に登るでもなく「琴古流もいろいろ」で罷り通る。「古典、伝統は創造無きところに存在し得ない」の師匠の言がこだまして、実に面白い。

ただ、十人十色たる琴古流にあっても「音の頭にアタリを付ける」というルールはほぼ行き渡っているように思える。都山流の諸氏もアタリを援用するが、それはルールというよりはアクセント、塩梅の範疇であるだろう(なにせ、やりすぎると琴古流に聞こえてしまう)。つまり、黒沢琴古の昔は分からないが、現代において、琴古流の特徴、その筆頭はアタリである。ほかに「甲走った、張りのある音を好む(音量の問題ではなく)」「メリ込み・スリ上げを多用する」なども特徴ではあるが、琴古流だけの傾向とは言えないし、程度問題であり、当てはまらない派や名人もある。とまれ、少なくともアタリのない吹奏は、おおよそ琴古流のそれではないということだ。

私はコレクターのケは薄いほうなので、手に入れてもろくに吹かない(吹けない)だろう琴古管を欲しいとは思わない。幾らするのか知らないが、もし購入に足るオアシを得たらば、速やかにクルマを駆って横浜へ、田中さんの竹を買い占めに乗り込むだろう。しかし、古いものをさわってみれば思うところは次々と湧いて出る。古管の世界もいい。不即不離が上策。


LX100 ここ数日の京都はバンコクより数段危険な暑さ、否、熱さだ。

地震大水土砂崩れときて、40℃もドンとこいの残酷暑。日本にもはや逃げ場はない。大昔なら鄙に都に民の怨嗟の声満ちて「そうだ、遷都しよう」の、そろそろ頃合いだろう。そんななか、会が近づいてくる。
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河宮拓郎(カワミヤタクオ)
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