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いずこじ

陰陽、笹の葉、風の色。琴古流尺八、道中甲有り呂有り。

続・三曲について

先に「室内三曲合奏に適した音量の尺八」も作られるヨノナカになってほしいと書いた。その後つらつらと考えていたのだが、三絃のほうは、音量において何らかの変化を欲することはなかったのだろうかと不思議に思うようになった。

漆地を備えた竹の音がみるみる大きくなり、三曲合奏が「室内」を飛び出して広いホールで行われるようになり、減衰のスピードが極端に速い三絃の余韻が相対的にしおれ始めたとき、それでも弾き手はひたすら泰然を貫いたのだろうか。現代邦楽華やかなりし頃には、十七絃などの低音にも圧されて相当苦しかった(今も苦しい)はず。いやさ、三絃にもさまざまある中で、中棹は太棹に音量で後れをとり、細棹に手の速さで敵わず(ともに音色の美しさとは無関係の物理的な話として)、最も制限の多い部類の楽器だ。もちろん「制限は様式を生む」であり、そこにこそ地歌の美はあるのだが、「もうイヤだ。俺は私はもっと大きな音で、竹に箏に伍する音量で地歌を弾きたい!」と考える人、またその意を受ける職人が、かつて現れなかったのだろうか。…いや、そりゃきっといたな。私が知らないだけだろう。

竹の音量問題を含め、PAを使えば話は簡単で、理想的な音量バランスの三曲合奏はたちまち実現する。しかし、たとえ腕のいいPAさんが付いてくれたとしても、(録音機材ではなく)スピーカーに繋がるマイクを喜ぶ古典の奏者は少なかろう。楽器を問わず、たとえ国立劇場の大劇場であっても、客席には生音を届けてこそが本来。だいたい、邦楽の音色に通じ、その忠実な再現に全力で心を配ってくれるPAさんやミキサーさんが世間にそうはいないことくらい、いろんな場所で、いろんなかたちで邦楽を聴けば(また演れば)おのずと分かる話だ。その点、生音ならば響かなくても届かなくても埋もれても、嬉しやなの自己責任。少なくとも、オノレの音色が損なわれる気遣いはない。

と、話が逸れた。広くて響く場所での合奏を用途とする、音の柄の大きな地歌三味線に、今また誰か挑戦しないものだろうか。もちろんその楽器は、従前の三絃が備える美点のひとつやふたつ失わざるを得ないだろう。しかしそれは、文明開化以降急速にフルート化してきた竹もご同様。お互い、昔ながらの楽器は昔ながらの合奏空間、畳の上で使えばいい。楽器はきっと大きくなって、弾き方も歌もある程度、いや奏者にとっては劇的に変わることになろうが、なに私だって、メインの八寸と(いまだ定まらないが)室内三曲用の八寸とでは、ハタ目にはちっとも判らないがだいぶと違う吹き方を強いられるのだ。相身互い…とはならないか。

四世杵屋佐吉氏が考案し、大正13年に作られたという超巨大長唄三味線「豪絃」の皮の張り替えが昨年末の邦楽ジャーナルで報じられたそうだが、未読の私にはこの楽器が擦絃専用なのか撥絃での演奏も可能なのかさえ分からない。ま、地歌において竹・箏と互角以上の音量を求めるのみであればアソコまでいかず、膝に載り、現行の撥で弾けるものであってほしい。

…そろそろどなたかのお怒りを買いそうな気もする。しかし、こちとらもふざけてはいない。


K-5Ⅱs クアラルンプールの人なつっこい猫でごまかしてみよう。
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河宮拓郎(カワミヤタクオ)
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