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いずこじ

陰陽、笹の葉、風の色。琴古流尺八、道中甲有り呂有り。

続々・三曲について

高橋鉄観氏「五面や六面の箏に負けるような音じゃ駄目です。」と口癖のように。
より大きな音を目指していた時代の証左でしょう。

歌舞伎の長唄、常磐津、清元、生音で劇場隅々まで響き渡る為に、楽器と人数を増やした。ある意味、オーケストラの各楽器の人数バランスに似るか。

三絃一丁の音を大きくする工夫は、或は音楽先行の屋外演奏の必要性から弦楽器というよりも打楽器寄りに進化したか、余韻を捨てたような津軽三味線の激しさとリズム。

地歌三味線は歌詞、趣きから独奏ならではの世界か、浮草の哀れを十丁の三絃での合奏は考えにくい。新内の大合奏も体をなさないでしょう。
遊女の大合唱はありえない。

地歌三味線の音空間は領域は
「一人うたい、弾く。」が前提され、儚き女が、深窓の令嬢が座敷で演奏、部屋には人がいても数人、いなくても。
元々こんなイメージに生まれ出た音楽でしょう。

逆に、地歌三味線にボリュームを求める必要性は無かったのかも、ただ、ネアジとサワリは楽器職人と名人の密接な関係性のなかで育まれたのは確か。竹以上に楽器職人とベッタリの信頼関係を折々に感じたものです。

さても、地歌三味線の、名人の撥さばきと迫力は一丁とは思えぬ迫力、気合に満ちてましたが、今時のそんな藝の持主はどなたかしら。

発破か、音は大きければ良いのか、そんな問題、どんな問題。

楽器は、三絃のことにすれば、作りたい音楽世界に適するように分化し発展したのでしょう。とすれば、楽器だけ引き抜いて、音量のみをデカイほど良いとするのは、着物を仕立てて、身体を合わせろ、みたいなことか。

いずれにしても、竹だけが音量が増えたことは確かです。

バイオリンが20人いても、フルートは一人か二人。
歌舞伎の長唄、何丁何枚いようとも、笛は一人。

明治以降、三曲の竹が大き過ぎるは、まあ、当たり前か。胡弓がか細く音間を繋いでいたのですから。

でも、在りし日の名人が、音を弱く、或は、小さくコントロールしていたとは思わない。
ただ、出るところ、殺すところ、単純に出しっ放しではなかった。フワリと浮いて、スッと裏に回る。

お題が叱りたいほどのルアーだったもので、つい、拡散のしっぱなし。

・・・・・


LX100 我らが菩提寺の梁に架けられた駕籠。立派で、かつ禅宗らしい趣味。

と、師匠が反応してくださった。

地歌三味線の音が大きくなればホールでの三曲合奏は音量のバランス調って一件落着などと、いくら浅はかな弟子であってもユメユメ思いもしないことは師匠も承知で。どころか、音量を上げるために楽器の構造を多少なりとも変えたとき、音味やサワリもまた、奏者にとっては決定的に変わらざるを得ないだろう。それでも、音量バランスが崩れている状態、或いは竹が肩をすぼめて音を痩せさせている状態の三曲合奏に、事情を知らない聴衆が何を思うか。その状況の改善のために何ができるかを考えることくらいは、地歌の破壊にあたるまいと。居ずまいを正して古人の列に連なる。その列を途切れさせてはならない。もちろん、よりよい方法が他にあればそちらを採ればいい。

昨年末の同窓会で春の海を合わせていただいたスパニッシュギターの名手・藤井浩氏は、いわゆるチャルメラの一種・ドルサイナというスペインの管楽器の奏者でもある。大阪・天満教会でのコンサートの折、このドルサイナの音も聴かせてくれたのだが、もっぱら野外で使われる楽器だというのが頷ける、それまでのギターの繊細な音色の記憶が消し飛ぶほどの凄まじい音量。曲想を鑑賞するどころではなく、1曲聴き終えただけで耳がキーン。もちろん音量はさらにいくらでも出せたはずで、そこを巧みに制御しつつ演奏されていたのだろうが、正直なところ、これを屋内で聴かされるのは御免蒙りたいと思ったものだ(藤井さん、スミマセン。次はいっちょ野外で)。

かように、音量の適不適というのは、技巧や音色云々とは別次元、「その場において調っていて当然」の音楽的条件なのだと思う。だから、音量が小さい楽器はマイクを使う。そもそも大音量をしか想定していないエレキやシンセはアンプ直結で演奏される。繊細な音色を誇る邦楽器にマイクやエレキ化などもってのほかというのであれば(私もそのクチだが)、「畳の間を出ない」「楽器の音量を上げる」の他に選択肢はあるか。

もちろん、ある。しかし、それを為し得る人はそう多くない。

出自も音量も三曲にうってつけの胡弓を押しのけ、市井においては旦那芸であった尺八が糸方の横に席を占めた。それはきっと経済的な力学事情も絡んでのことだったろう。歌に添い、減衰と空白の間に音楽を紡ぐ三味線と、その間を笹の葉状の「ふくらむ音」で満たしていく尺八は、なさぬ仲が本来。しかし、古典を味わううえでの前提となる教養や常識がヨノナカから消えてなくなりつつある今、曲の主旋律を分かりやすく示す尺八は、いつのまにか結果オーライで地歌のよきガイドになっている。少なくとも私はそう思う。

ガイドが山に注文をつけるなど傲岸も甚だしいはなしだが、山が大きければガイドも案内のしがいがある。そんな不遜の物思いに耽りつつ、いつやるとも決まらぬオノレの勉強会の番組を考えている。さても、音色においてミュートを武器と見極めたマイルスは、それだけで偉大であったとつくづく思う。
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河宮拓郎(カワミヤタクオ)
性別:
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