たとえば矢野顕子が、小田和正が、中島みゆきが童謡のチューリップを歌ったら、それは凄いチューリップになるだろう。いい声だねえ。つまりは、歌は曲よりも声。いい歌なんてそうそう生まれるものではないが、いい声で歌えば大概の曲は「ほぼいい歌」になる。
数は少なくとも本当にいい歌を、いい声で歌う。それで充分に音楽にかなっているはずなのに、彼ら彼女らは「ほぼいい歌」を量産する。そしてたまに、本当にいい歌を混ぜる。音楽が多くの人を巻き込んでの、今よりもずっと大きなパイを取り合う経済活動であったのだから仕方のないこととして、かの業界ではせっかくのいい声に、誰でも分かる新味を加えようと必ず誰かがドレッシングをジャブジャブかける。YMOのテクノサウンド、オフコースのちぐはぐなロック風、みゆき嬢の後ろの大仰なコーラスに、盛りすぎ煽りすぎの伴奏。今聴けばどれも不要どころかハッキリ邪魔だが、あれらはひょっとして、度の過ぎた、聴衆を怪しい方向にさえ導きかねないほどのいい声を希釈するための薄め液であったのか。
誰が名づけたか、今やジャンル名としてすっかり風化してしまったニューミュージック。「フォークのちょい先」くらいの微妙に新しい音楽をそう呼び、かつアッコちゃんのように既成ジャンルに到底収まり得ない才能までを囲い込んでしまおうとする十把一絡げぶりだったのだから当然だが、とまれその御大に数えられたお三人に限らず、昭和に花と咲いたいい声の持ち主は、えてして声以外の音楽に比較的無頓着であったように見える(それが、スタイリッシュであることを価値観の柱に据えるロックやポップスの住人からはダサいと小馬鹿にされた)。いや、声の周りの音楽どころか、もともとジャンルさえどうでもよかったのかもしれない。いい声を持つ本人であればこそ、誰よりも「いい声ありき」で然るべきだ。小田和正の「越冬つばめ」も、「中島みゆき&OZ」も、ことと次第によってはあり得たか。ちょっと聴いてみたい。
昨晩寝つけず、枕元の、もうカセットでもCDでもMDでもないウォークマンに手を伸ばして懐かしき「あ・り・が・と・う」を聴いたらますます眠れなくなり、もやもやとわいて出た徒然草。この頃の伴奏はとてもいい。声は言うもさらなり。
K-5Ⅱs
いい歌は少なくていいからといって、某歌手が何枚もアルバムを出しているような、原曲を上回ることが決してないカバーという名のカラオケなどは論外と思えども(原曲を軽々と越えていく、アッコちゃんの恐るべきカバーを見習うべし)。
さて、竹は、邦楽はどうか。