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いずこじ

陰陽、笹の葉、風の色。琴古流尺八、道中甲有り呂有り。

無所作

いつの再放送かは分からないが、NHK「にっぽんの芸能アンコール 多彩なる笛の世界」を観る。能管、篠笛、龍笛とさまざまの笛、その名演奏を聴けて大いに勉強になったが、とりわけ「この人は!」と思えたのが、最後に創作曲「鞍馬」を吹いた藤舎名生さんだった。

しじまから漏れ出るような滋味深い音にまず惹きつけられたが、数秒後からは奏者の所作、いや、音を発するための動作を除きいっさい身体を動かさない “無所作” から目が離せなくなった。尺八に比べ数分の一の軽さの篠笛であり、また安定の悪い横構えであれば、息を継ぐたび、高音を出そうといきむたび肩が大きく揺れても仕方のないところ、とくに胸から下は松の大樹のように動かない。しかもそれが、動かないぞと力を込めてこわばっているのではなく、軽い静物をふわりとそこへ置いたかのように、ただ動かないのだ。美しい。この美しい所作を備えた奏者であれば、音が素晴らしいのは当たり前。また実際に音が素晴らしいのだから、所作が美しいのは当たり前。うまく云えないが、音と所作が相互に必要十分を証明し合っているような、そんな美を味わわせてくれた。

この無所作の美を尺八できわめた第一人者といえば、否、いうもさらなりの山口五郎先生であり、その「動かなさ」(おかしな日本語だが)を絶対値で比較すれば、先生は世界のあらゆる楽器奏者の中でもトップ、とまでは浅学ゆえ断言できないが、表彰台入りは間違いのないところだろう。なにせ、ブレスはおろかメリにおいて首を動かすことさえないのだから。学生の頃、国立大劇場のかなり後ろの方で五郎先生の演奏を聴いた折には、動いている指さえはっきり見えない距離をおいて、まるでお地蔵さまから竹の音が発せられているかのように思われた。しかもその音が、余計な力や雑味のすべてが除かれたゆかしい音が、恐るべき親和力であの大きな空間を満たしていくのだから、私は音曲を聴いているというよりも、なにやら神秘体験のたぐいのうちにあるような、異様な感覚に陥ったものだ。

私は、まだまだ動いてしまう。そのたび、師匠から「動くな。気持ちの運動は音にのみ乗せよ」と叱られる。叱られて、動かずに例えばウヒとやれば、アタリは決まる、音はブレず逃げず前へ飛ぶ、効果てきめんなのである。のに、京都に戻ると黙阿弥。ヨノナカには切なげに身をよじらせたりジャンプしたり、いろんな吹き方をする御仁のあまたあるが、私は「動かない」を採る。採るが、まだ果たせずにいる。お地蔵さまは遠い。

そして、動かないを目指す以上、基本は当然、座奏だ。立っていいことは、ほぼ何もない。あ、そうだ、正座椅子。


GM1

ときに、五郎先生はなぜメリでも動かないのか。長年「大名人だから」と技術的に捉えることを放棄してきたのだが、つい先日、ある人が「ああ、あれはこうやってるんだよ」と。実に何でもないことのように教えてくれ、かつ実演もしてくれ、ちょっと目まいがするほどの衝撃であった。メリにもいろいろあったのだ(が、メリで避けるべき障りをキッチリ回避しているという点では全く共通だ)。「それ、どこかのタイミングで教わるんですか?」「そんなのは見て覚えるんだよ」。こんなことを言える「ある人」も、当然ながらタダモノではないお地蔵さまなのである。
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河宮拓郎(カワミヤタクオ)
性別:
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