「もちろん21世紀では、アイデアは経済システムに取り込まれます。この時代において何かを表現したいならば…たとえば哲学を生き残らせたいならば、時代にあった表現を見つけなければなりません。それが21世紀のゲームです。そこで戦わなければ、考えを人に伝えることはできません」(句読点は引用者が字幕文に付加。以下同)
「哲学」を「尺八」「邦楽」と入れ替えても成立しそうな。あらゆる表現について述べているのだから自然なことか。NHK「欲望の時代の哲学 マルクス・ガブリエル日本を行く」を観て、ウーム。といっても、「僕はペンを手に持っているが、ペンは本当に在るか?」といった、いわゆる哲学的な問いに個人的な関心は薄い(哲学への量子力学の流入を俟つまでもなく、大いに突き詰めれば「本当のことは誰にも分からない」で終了、だからだ)。ウームと感じ入ったのは、ガブリエル氏に備わる不動で明確な倫理観に対してだ。
「倫理の土台がなければ多数決は無意味です」。SNS上で名も無き一般人が発信すれば、たちまち揚げ足取りの群れに吊し上げを喰らいそうな文言だが、聴衆を前に、彼はそれを微笑みながら笑っていない目で言う。高名なロボット工学者、大阪大学大学院・石黒浩教授の研究室を訪ねての対談では、自分を含めたドイツ人一般が「ヒューマノイドという認識を拒絶してしまう」と語る。人間のようで人間でないものを認めるならば、70年余の昔と同様に「人間ではないから殺してもいい人間」が生まれてしまうからだ。その過ちを二度と繰り返さぬために「絶対に『人間とは何か』に疑いを持ってはならない」と説く。やはり微笑みながらヒューマノイドを否定し、その研究開発をすら忌むべきとするガブリエル氏に対し、「なぜロボットにこれほど夢中なのかというと、それが我々人間の目標だからです」と噛み合わない石黒教授は終始丁寧に応じていたが、内心「気鋭の哲学者だというこの若いのは、いったい何を言ってるんだ?」と思っていただろう。
ロボットと人間の境界が交錯することによって人が自己像を見失うとき、民主主義は揺らぎ、コンピューターによる社会の支配がやってくる、と。書いてしまえばコミカルですらある言説だが、たしかに世界はその時へと疾走しているように思える。インダストリアや、ヤマトとレングード、あれらマンガ的な、風刺的極端であったはずの「テクノロジーのなれの果て」が、まんま実現する未来は決して遠くない。その一気呵成の「自然主義」(氏の用いる独特のタームだ)に抗う武器が、自由であり、またその自由を規定する倫理であるとガブリエル氏は言いたいようだ。
御説はときにメルヘンチックですらあるがご尤も。哲学というよりも道徳の講義を聴くような。この人が学問的にどんな功績をあげてきたのかは知らないが、一切からの中立を求めるはずの哲学者が切々と倫理を説くこと、またその倫理の出自が、自国の歴史に学ぶドイツの同胞と共通であると確信を持っていることに、一種の感銘を受けた。国民投票で原発全廃を決めた国。同じ敗戦国でありながら、此岸はどうか。「思索する人による理性的な社会をつくるため」の強力な連係相手だと日本を買っているガブリエル氏の期待に、まずワタシは応えられるだろうか。
ペラペラのシンセサイザーとミックスされ、かつ強度のリバーブをかけられて、誰が吹いているのか分からない、というより誰が吹いていようがサンプリングだろうがどうでもいいような尺八を聴きながら、尺八の自由を思索的に追求するならこうはならないんじゃないのかなァとぼんやり。それとも、経済システムに取り込まれた尺八の、これが21世紀的ゲーム攻略法? 倫理なくして自由なし。近頃Eテレばかり面白い。
K20D
さて。未知の世界、いやさルーツのルーツを見聞しに、楽器持参で少し遠出をしてこよう。