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いずこじ

陰陽、笹の葉、風の色。琴古流尺八、道中甲有り呂有り。

点で聴く

歌を聴いて間をはかる、というのは地歌箏曲の三曲合奏において竹が為すべきマスト中のマストであるが、これまた例によって題目と運用の問題であり、どう聴くかによっては「いやいや、アンタちっとも聴いとらんじゃないか」と、どこぞの為政者代表に放つべきコトノハを向けられることにもなる。

最良はむろん、歌を丸ごと覚えてしまうことだが、それができる人はごく少数だろう。私も恥ずかしながら、歌の拍節まで覚えている曲などただのひとつもない。で、覚えられないなら、吹きながら歌の旋律・拍節を微分的に観察してそこに含まれるGPS信号、あるいは太鼓の達人の「叩け」マーク(何と呼ぶのか知らないが)を識別し、拾っていく、ということになる。その聴き方だ。

浅学にしてつい近頃気づいた今さらながら、慣れていない曲においては、歌を、というより、旋律を聴きすぎるとこの信号を逃すことがしばしばあるように思う。この場合、旋律の展開についてはあえて耳を閉ざし、音の高低の移動ポイントだけを点で拾っていく歌の聴き方をすると、少なくともGPS信号はグッとつかみやすくなる。

旋律を聴かないくらいだから、いわんや歌詞など “無視している” に等しいこの聴き方は、もちろんすこぶるヨコシマであり、あくまで慣れない曲をやるときの便法でしかないのだが、実際、いま稽古している初めての曲において、気がつくとオノレがこの聴き方になっていて、そのほうが全部を聴こうとするよりずっと合わせやすいときている。ヨコシマだが、「先ず生きている」と同じ意味合いでの「先ず合っている」の段階へ至ってから旋律の推移を理解し、さらに「いまこういう歌詞のところだからこう吹こう」に進んでも、順序あべこべとまでは言われまい。

なにせ竹譜が4ビートをやっている隣で、歌は16ビートを、しかも4・8・12・16ビート目を自在に踏む「高等な」拍使いを始終やっているのだ。拾うべき「点」も分かりやすければいいが、かすかなコブシやポルタメントで表されることが多く、さらに九州系では会派・奏者ごとに独自の間やタメが入る(もちろんそこには明確なルールと美意識がある。即ち個性)。要は「先ず合っている」でさえまあまあ、いや相当に難しいのだ。だからこそ面白い。その通り。だからこそ音楽的にツーカーの糸方との合奏は、何を言わずともビタビタと合って無上の快感をもたらしてくれる。その通り。大学の頃のオノレの胸ぐらをつかんで教えてやりたい。

でも、邦楽をやらない人はこんな事情など知ったこっちゃない。ビタビタに合っているのが普通だと思っているだろう。歌と完璧に合わせている竹吹きがいれば、それはまず一流。さらに、一聴で文句なくいい音だなあと思えるなら超一流だ。

ついおとといあたり、クルマで適当に音楽を流していると、たまたまコルトレーンの Naima がかかり、お、そういやこのゆったりしたタメ感は九州系に近いかも、などと思ったのだった。でも、ベースはタメながらも常に刻んでいるし、地歌のようにアウフタクトを変幻自在に使いまくることもない。間や拍節の難度で云えば地歌のほうがだいーぶ上だナ、フフンと鼻を鳴らしたのだった。アドリブなどビタイチできないくせに。帰宅後、Giant Steps 以外の Naima 音源を自分は持っているんだっけと iTunes を漁ると、クレモンティーヌの同曲が出てきた。どっちもむやみと酒を飲みたくなるという点で共通している。ただ、クレモンティーヌだとビターなショートカクテル一択か。よしなし。


K-01 最近買ったぐい呑み。グロめの梅花皮といい下地のサイケな色合いといい若干アタマ悪そうだが、口縁が柔く滑らかで気に入っていたり。安かったし。

常時セミフリーズもしくはフリーズの瀕死状態で不便このうえなかったスマホを6年ぶりに新調したら、当たり前だが何もかもがスムーズで、機種変更までにどれだけの時間を無駄にしたのかと悲しくなる。が、便利だサクサクだとスマホに重心を預けていくと、つっかえ棒が外れたときに大ケガをする流れも見えている。不即不離。スマホを使いながら、スマホなどなくても心安らかに生きられるところへ、いつか至りたい。
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河宮拓郎(カワミヤタクオ)
性別:
非公開

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