忍者ブログ

いずこじ

陰陽、笹の葉、風の色。琴古流尺八、道中甲有り呂有り。

口ではない/ロでもない

知り合いの某さんのFBで、しばらく前にアップされたこの動画を知った。以下の文は、できれば動画を視聴してから読んでほしい。


K-1 Ⅱ

賛成、反対、各論賛成総論反対またはその逆、判断保留、いろいろと思うところはあるだろうが、どうあれ私も、この動画で云うところの「プロの音」、すなわち「それなりの対価を得るに値するような “いい音”」とはどのようなものかについて、さまざまに考えてきた。

語り手さんの「“いい音” の基準や指標がいつしか変わってしまって今に至る」という考察については、個人的見解として大いに同意する。現在に近づくほどに、私が尺八を吹く動機は「おお友よ、このような響きではなく!」に近づいてきてもいることから、ここはしかと幟を立てておく。

何年も前、ある有名奏者の演奏を聴いた折、演奏の内容より衝撃を受けたのは、その音だった。ボリュームで聴いた感じ、奏者はメゾフォルテくらいの息を入れているはずなのに、竹は吹き込みすぎで音が潰れる寸前のようなビリビリ音(いわゆる “ビンついた” 音)を出しているのだ。入っている息と出ている音の緊張感が見合っていない、決して大きくないのにビンビンと、いわばリミッターがかかったような奇妙な音。メゾフォルテでこの状態だから、さらに息を入れれば音は完全にひしゃげて倍音成分も痩せ細り、楽器の音色とは思えない耳障りなブザー音になってしまう。なんだァ、あの楽器。

そんな楽器を作る製管師が居る、ということは即ち、そんな楽器を求める奏者がアマタいるということだ。入れている息以上に「鳴っているように(聴き手とオノレを)錯覚させる」ような楽器を。そして、その「鳴っている」が目指すのはワレガネの音。ビリビリとうるさく威嚇するような、音楽からは宇宙的に遠い音。

このテイタラクの原因にはもちろん吹き手の美意識の変容があり、その変容はなぜ起きたかを考えるとき、決定的な理由は「昭和の達人連の妙音に、弟子たちが誤った憧れ方をしたこと」で間違いはないと思う。ついでに云うと、直弟子を除く “フツーに尺八を習う人たち” は、達人たちの音をほぼ録音音源に頼って聴くしかなかったわけで、生で聴くマエストロたちの音がどれほど濃密で滋味に溢れているかを肌で感じ、分析する機会が少なかったことも大いに影響しているだろう(そして皮肉なことに、録音音源とその放送が普及したことで、教習者を含め「竹を聴く人」自体は昭和にソコソコ増えた)。何度も云うとおり、録られた音と生音とは、次元の違う別物だ。そして、仮にライブであっても、広いホールに朗々と響き渡る音もまた、厳密な意味での生音とは違う。あれは、生音のいいところに化粧を施し、悪いところにマスクをかけた音だ。

語り手氏が折に触れて「こんなことを言っている私もそうだった(誤っていた)」と述懐する、その例に漏れず私もまた、かの達人たちに憧れて、生音をろくに知らぬまま自分の中にいびつな「あらまほしき音」のイメージを作り、そこに近づきたいと励んできたクチだ(てか、尺八に限らず「習う人」というのはダイタイがそうだろう)。その志向自体に大きな誤りがあるとは思えない。問題は「自分がいま教科書だと思っているコレは、はたして “ちゃんとした” 教科書か?」という疑いと検証の意志・アクションを持たないことにある。

さて、「いい音ってのはそうじゃねンだヨ。乙ロをビリビリ響かせりゃいい音だって? 冗談云っちゃァいけない」と、ここまでがいわば題目。となれば、じゃァ聴かせてもらおう、いい音ってのはどんなだい、とここからが運用だ。奏者の能力と美意識、そして楽器、それらが合わさるところに生まれる音が「いい」かどうかは客観的に判断しがたい。というか客観などない。できることはひとつ、「私の思ういい音は “これ” だ」と吹いてみせるばかりだ。

長らく状況に身を置き、その有為転変を概観してきた語り手氏がいま、「そんなのはいい音でもなんでもないよ」と言いたくなる気持ちは分かる。分かるが結局のところ、いい音なんてものは口で説明できるものではなく、また「これを聴け」と録音音源を示すのも次元とお門の違う話。「THIS IS IT」は自分でやるしかない。その点で私は、語り手氏のような方法での意見表明そのものに総論反対、となるのだ。ものを言うのは口ではない。

ただ、こういう話を肴に竹友と酒を呑むのはヒジョーに楽しい。酔っ払ってはまともに竹を吹けないから遠吠えも気楽なものだ。
PR

コメント

プロフィール

HN:
河宮拓郎(カワミヤタクオ)
性別:
非公開

P R