8月下旬の自前の演奏会以降、なぜだか仕事が立て込んで(編集部時代に比べれば高は知れているのだが)、私にとってとても重要な「眠りたいだけ眠る暮らし」ができなくなっていた。新年早々横っ面をひっぱたかれそうだが、私は結局、これができないとまともに生きられないタチなのだ。もちろん、たまの半徹・完徹くらいはなんとかなるけれど、7時間未満しか眠れない日が1週間以上続くともうかなり辛いし、ひと月ともなると本気で逃げ出したくなってしまう。そのキワキワのあたりが数カ月間続いたので、これは結構キツかった。つまり私は会社勤めなどできる人間ではなく、社会に出るなり最短距離でフリーランスになるための努力を積むべきであったのだ、と今となっては分かる。私は万事につけ気づくのが遅い。何の話だっけか。
そうそう、去る年の後半は忙しくて、まずまず心身を削られた。今年は忙しくならないよう、かつ干上がらないようよろしく調整するのだと心に誓う2023年の5日目。
尺八については、これまでと同様「表に出やがれ!」をモットーに、私が上がれる舞台があれば遠慮なく出ていく。ただし、「私が上がれる」は「上げてもらえるならどこへでも」という意味ではない。ややこしいが、当たり前のことだ。
音楽をどう薬籠におさめるかはケースバイケース、さまざまの修練と思考推敲が必要となろうけれど、その器づくりに向けて我が年初の念書に認めておくべきは
「尺八は打楽器でもある」という、忘れがちな大事だ。昨年の「打つ ≠ アタル」問題の折にもカスっているが、打ちやアタリのもたらす打音と、その前後に生ずる音の変移こそは琴古流のアイデンティティであり、「尺八の音」らしさの肝腎でもある。のだが、旋律に気をとられると、また本曲をちょいとなおざりにすると、この大事をすぐ指が忘れてラクをしようとする。師匠が聴いているところであれば必ず指摘してもらえるが、いつまでもそんな過保護でどうする。
「打」を忘れないということは、手孔を大きくあけることへの恐怖を克服するということにほぼ等しい。私の場合、そうでなくても細い指では塞ぎきるのが難しい楽器を使っているわけで、かつ、指を大きくあければ耐えきれずに音が割れる(すなわちダイナミックなアタリに対応できない)楽器を使っていた期間が長かったことから、いまだに恐怖心がある。田中さんの楽器を信じていいのだと、オノレの身体の芯にまで刷り込むのに、あとどれだけかかるだろうか。ともあれ、これが今年の “お題目”。
K-1Ⅱ 新年のちゃぶ台を彩ってくれた『ふくら』と『いっしょう』の酒肴おせち。『いっしょう』のおせちを取りにいけば店に入るも誰もおらず、「こんちわー」と呼ばわると、小上がりの一升瓶の森陰から「うわっ」と声がして飛び起きるご主人。かたや『ふくら』のご主人は、取りにいったときは元気溌剌の様子だったが、ジョーのように燃え尽きてノビた写真を元旦のSNSに上げていた。個人店がおせち注文を受けるというのは、年末の大繁忙期から手間のかかる料理を営業時間関係なしで作り続け、大晦日にはかくまでに疲れきる仕事を自らに課すということなのだ(7時間睡眠がどうしたって?)。高くても仕方ないのだが、両店とも中身が価格を完全に凌駕している。ありがたい。
目標は立てた。今年だけ遂行しても意味がないし、今年だけでパーフェクトに身につくはずもない。地味に、確実に。
あ、そうだ。目標ではなく今年からのささやかなルール変更がひとつ。このブログでの数字の表記を「ひとケタ:全角/2ケタ以上:半角」から「ケタにかかわらず半角」に改める。アルファベットも同様に。全角と半角の文字バランスがオカシイ書体や、文字間を勝手に(しかも醜く)あけ狭めする Word 的処理にはもう20年来腹を立て続けているのだが、全角と半角の数字を使い分ける組版的マイルールで押し続けても甲斐がないと諦めることにした。
さて、今日はまだいろいろ書くことがある。項を改めよう。