「負けに意味はない」と、水谷隼は言い切る。十代から長く日本で断トツの強さを誇り、しかし中国トップ勢にはどうしても勝てず、毀誉褒貶を一身に浴び(て少々世を拗ね)た天才アスリートが、骨髄にしみる悔しさの中で導き出した極論にして自戒であろうと、凡人たる私は考える。しかし、凡人はふつう負け続けるものであり、勝って何かを得ることなどタマサカの幸運。負けに学ばなければ、本当に意味のない勝負、ひいては意味のない人生になってしまう。
緊張はほとんどしなかった。練習通りという点では前回を大きく上回り、ほとんど会心の出来だったと言っていい。その演奏がハシにもボーにも引っかからなかったということは、つまり何かが大きくズレているのだ。此方はコレを売りたい、彼方はアレを買いたい。その取引が不成立に終わった。商品は替えられないし、モノに一定の自信も持っていた。しかし、そのアピール、プレゼン、サービス、ベンキョウは、充分であったか。ちゃんと客の目を見て商いをしていたか。
勝って初めて手ざわりのある何かが得られる、という考え方なら、確かに負けに意味はない。だとしても、勝つ力を養うには負けて拾った苦いクスリを飲み下すしかない。レッツ捲土重来。
LX100 翌日、ここで某コンテスタントさんとばったり。びっくり。
ときに、フィギュア王者の云う「負けは死も同然」は、水谷の言とはだいぶ意味合いが違うように思う。水谷は、たとえ年収が何億円あったとて、サムライではなく陰キャの立場でキレ気味に発言しているのだ。そこが卓球選手らしくていい。