さんざん苦労して、およそ思う通りの音楽をものすることができるようになったとき、初めてその音楽の芯、すなわち「思う通り」の「思い」そのものの値打ちがはかられることになる。発信者の思う音楽がなんの障りもなく聴き手に伝わる。それは、その発信者にとって幸せであるのと同量かそれ以上の怖さをはらむ状態であるだろう。有象無象から抜きん出て、もうそろそろライバルもいない。よりにもよってそんなタイミングで、自分が音楽に祝福されたひとにぎりの人間ではなかったと確信するような仕儀となるなら、想像するだに酷いことだ。
何が言いたいわけでもないが、「うまいなんてのは大したことじゃない」と先達に諭されたことをしばしば思い出す。もちろんうまくなくていいということではないが、音楽の芯に厳然とあるのは「思うところ」であって、あとは飾りだ。飾りは綺麗だが、芯のない音楽をいくら飾り立ててもむなしい。
音楽の芯を聴きたい。音楽の芯を奏でたい。聴き甲斐のある芯を聴きたい。聴き甲斐のある芯を奏でたい。本曲の場合、思うところは定型を通してしか発露し得ず、「型」と「吹きよう」が不可分の一体となって芯を成しているように思う。その芯が大きくなるほどに飾りは不要になっていくと予想するが、どうだろうか。
K-5Ⅱs