いまだ無慈悲な残暑が続く中にあって、目にはさやかに見えねども、竹の音が少しく乾いて感じられる日が増え、だらだらと汗をかきながら「ああ、夏も終わりだな」と。涼しくなるのはいいのだが、竹の音が気温と湿度の低下につれて痩せゆくのは、自分の生命力が減じていくようにも錯覚されて(錯覚とは限らないが)、それがありがたい季節の移ろいだとは分かりつつも学生時代から寂しく切ない思いをしている。
さて、三曲合奏の話。このブログの序盤に載せた師匠とのディスカッションを含め、ざっと20年来とやこうやと思い悩んできたが、現時点での考え方をここに備忘録として。どうせそれは数年も経てば自分の中で古びてハンカクサイ考えとなっているだろうから、つまり、少しは前進しているだろう行く末に宛てた笑いぐさ、というほどのものではあるが。
K-5Ⅱs
尺八の音は大きくなった。そして、大きくなりすぎた。
これが、室内三曲合奏における「私的」問題を引き起こしている根本的な原因であると思う。
とある三曲合奏練習会に参加した折のこと。会場は十数畳の和室。こういう場所で、私のメインの八寸(以前に書いた、田中忠輔さんの近年の作。節だけ埋めたウルトラ広づくりに漆を刷いてある)を本意気で吹けば合奏の音量バランスが保てないことは過去の経験から身にしみていたので、サブの八寸(同じく、後輩から譲ってもらった忠輔さんの昭和終盤の作。広づくりでごく薄めの地あり)で参加させていただいた。
お初の会であり、様子が分からないので、音量控えめのサブ八寸とはいえ抑えて吹こうと6~7割で。しかし、「ちょっと竹の音が大きすぎる」という講評をいただく。そうか、まだ大きいのかと、二度目は5割で。すると「今のでちょうどいい」。
音量の塩梅がこれでいいことは分かった。勉強になった。しかし、5割に止めるよう吹こうと思うとき、演奏中に考えていることはと言えば、いかに大きな音を出さず吹きおおせるかということばかり。注意深く吹く、というよりは腐心に近く、結果ダイナミックレンジはボリューム以上に大きく減じ、オノレの表現の幅をのせ損なったようなメリハリのない音楽になる。師匠の言う「合奏時、遠慮のあまり音楽を痩せさせるな」は、これを戒めるための言葉ならんと。
場所が和室である、という条件は無論影響しているに違いない。抜けのない空間では、竹の音はことさらに押しつけがましく響きやすい。だが、和室で音が大きすぎるということが、そもそも和室で始まったはずの三曲合奏においては大きな問題であるだろう。このとき思い出されるのが、例の初代黒沢琴古管だ。あの手の、逆立ちしても太い息など入れようがなく、ヒョロリと甲走った音を出すための楽器であればこそ、和室での三曲合奏に最適な音量を自然と実現できたのではないか。今はそう考えている。
琴古以後、尺八の内径や竹材がどのような変遷を辿ったのか、製管師でも古管コレクターでもない私には詳らかにすることはできない。されど思うに、まず地無しではどうしても度しがたい、というより、「尺八を同じセオリーで安定的に生産することができない」要因であった調律の問題を地盛りによって解決していった、その過程での副産物として、息→音の変換効率の向上、つまり音量の増大が生じたのではないかと。
その是非について何かを言うつもりはないが、とまれ、製管師たちの内径の工夫改良によって、竹の音は(少なくとも江戸期に比べ)格段に大きくなった。この変化は、いつからか室内三曲合奏の音量バランスを崩し、間断なく壊し続けて今に至っている、というのが私見である。
もちろん「そうではない」と考える人もいよう。あの三曲名人は、どこで何を吹いても糸を歌を殺すことなく素晴らしい合奏を成していた、と。実際そうである。しかし、その名人は、抑えて吹いてはいなかったか。音を張る弟子を叱りはしなかったか。そういう美学が芸風が賞賛を集めた、それはそれでいい。のだが、師匠と道中の私のあいだにかたちづくられつつある音楽は、どうやらソッチ系ではない。遠慮して吹くと…
「自分を殺さず、三人の総力が大きく見える吹きぶり、段切れ、ノル、シズメルの間を決めるごとき、出るところは、思い切って出る。でないと、こじんまり化を止められないことになる鴨。小さくなるばかり」
といったお叱りが飛んでくる。
「何度も言うが、尺八は『いい音だねえ。』これが幹」
これが師弟の大事なのであり、意図的に大きく音量を下げたとき、音は明らかに痩せる。しかし、たとえばサブ管の6~7割でも音量オーバーと感じる人がいる。つまり何であるか。「現代の尺八」という楽器の音が、基本的に三曲合奏においては大きすぎるということだろう。
竹が(あえて言えば)一方的に音を大きくする一方で、構造をほぼ変えずにきた三絃と箏は音量ほぼそのまま(箏は絹糸→テトロン糸で多少の変化があったにせよ)。しかも「本番」の舞台は和室から時を隔てて広く大きく、かつ長めの残響を持つようになり、特に三絃の余韻はより聴きとりづらくなっている。三曲で全員が全力を出したとき、いちばんあとからやってきた、「いなくてもいい」はずの尺八が音で一番大きな顔をすることになる。それには、内心ムッとする、否、はっきりと表に出して怒る人がいて不思議はない。
やはり私見であり、これは師匠の賛成を得られるかどうか微妙な考えだが、解決策はひとつ。音の小さな尺八を、どうにかして手に入れるしかない。そのうえで、オノレの表現の幅は余さず出す。よって、私はしばらく前から「吹き込めず、しかしストレスはなく、音が小さく、かつよい音である」という、ほとんど無理筋の楽器を室内三曲のために探し続けている。
田中さんをはじめ、今を生きる製管師さんに「小さな音の竹を作ってください」とはとても言えない(仮にそんな無理を言って作ってもらったとき、私が思うより鳴る楽器ができてしまったときのダメージが大きい)ので古めの管をあさることになるのだが、これがナカナカ。その竹でしか吹けなくなるような、あるいは地歌を吹く上で障りがあるようなクセの強いものでは困るが、クセのない楽器は基本的にスムーズで、たいがい大きな音でよく鳴ってしまう。それはそうだ。時代は違えど皆「よく鳴る尺八」を作ろうとしてきたのだから。しかし、どこかで発想を変えて「地歌にちょうどいい音量の尺八」という別ラインを設けないと、座敷の三曲合奏は壊れ続ける、もしくは痩せ続けるばかりで、いつか糸に見限られてしまうのではないかとも、この三曲好きは懸念する。
ともあれ、まずは音量を調える。それでもダメ出しをされたなら、そのときはそのとき、が今。あくまで「室内」三曲の話である。舞台では、悪くてもサブ管を使う。その先は、言わぬが花。