ビブラートについて思うことは、わりと多くある。
「どんなビブラートを使うのか」ということより先に考えるべきは、まず「ビブラートを採るのか採らぬのか」ということだ。ユラない音に独自の強さがあることは、明暗系の本曲、その名手の演奏を聴けばよく分かることだが、名手と云わずとも、以前にふれた早大竹友会、ここは、神如道師以来の代々に尺八の指南を仰ぐ、歴史の長い三曲サークルだが、たとえばここで尺八を始めて2年も経たないような、まだメリもおぼつかない若者の一切ユラない紫鈴法など聴いてみれば、巧拙とは無関係の「ユラない音の強さ」を、よりハッキリと感じることができるだろう。
飾らぬむき出しの音を人前に提出するというのは、覚悟の要る行為だ。かの若者たちは、如道曲をユラずに吹く曲、いや、ユってはいけない曲として習っているのだろうから、習ってすぐの演奏会で既にその覚悟を備えているのかどうかを知らないが、少なくとも私が早大虚竹会に在籍した前後の竹友会の竹吹きたちは、特に3、4年生ともなれば、ユラずに吹くことについて一定・相当量のプライドと解釈を持っていたように思う。
ひとことで云えば、ユラない音は聖・禁欲を志向し、ユる音は俗・快楽を志向する。ユラないことを生(き)やスッピン、素描、シンプルとするなら、ユることは調味であり、化粧であり、彩色、複雑性である。人は幾日もかけて調理された精緻きわまる料理も、切っただけの魚や野菜もともに楽しむ生きものだから、ユる/ユラないは、音のプレゼンターたる吹き手が選べばいい…はずだ。尺八の話として、同じ人がTPOに応じてユったりユラなかったりするのも自由だし、実際そのように演奏する人も多くいるはずだが、あくまで個人的には、そのユる/ユラないの使い分けにほのかな “信用のおけなさ” のような匂いを嗅いでしまう。なぜだろうか。
おそらく私にとって、ユる/ユラないは尺八における文体のようなもの、という感覚があるからだろう。乱暴に言うなら、ユリの有無は、聖と俗、韻文と散文、どちらでいくのかを常に表明し続ける幟のようなものである、と。くどいが、あくまで私にとって。いろんな文体をヒラヒラと使い分けて書く人を、私はあまり尊敬しない。竹においてはもちろんいくぶん話が違うはずだが、「一貫しないものを好まない」という性向は、当然、尺八の音の好き嫌いにも深く関わっている。
というところで「じゃあお前は?」だが、私は、ユって吹く。琴古流という流れの中にある「しかるべき音」が、一般にユリと反りがいい、というのもあるが、つまるところ、「私の音はユったほうがいい音だ」という絶え間ない直観が存在しているからユって吹くのだ。逆に、「この人の音、ユラずに吹くのを聴いてみたいな」と思うこともたまにある。そういう人は多くの場合、ボリュームは小さめながらキンと張った芯があり、高めの倍音成分が厚めである音で吹いていることが多いように思う。ひとことで云えば、繊細で力のあるガラス質。三世荒木古童師・二世川瀬順輔師のような(どちらも生音を聴いたことはないが)。あ、そうだ。私の好きな日本酒喩えでいけば、サラリの純米大吟醸、もしくは純米吟醸か。しかも火入れで味を落ち着かせた、そんな音。そいつを、飾り立てずストレートに味わいたい。私と対極とはいかないまでも、だいぶ離れたところにある音だ。つまり、おそらくだが私の音はノンビブラートとの相性がよろしくない。
三十路後半の頃、数年にわたってユリを封じていた時期がある。始めた頃はおそろしくしんどかったし、音楽的に一気にシロウト臭くなってしまったと思ったものだが、半年ほどやっていると慣れてきて、まあこれはこれで…と思えなくもないくらいにはなったが、このユリ封じを続けていった先にどんな景色が開けるのか、予想はつかなかった。で、そのまま年月は過ぎ、あるとき「もういいや」と思って、またユリを再開した。戻すのは簡単で、それこそあっという間だった。それだけ。ユる/ユラないにまつわるメリット、デメリットについてなんらか思うところや教訓が生まれそうなものだが、残念ながら。今のところ、この先再びユリ封じを試みることはないだろうと思っている。その感慨だけが収穫、と云えば云えるだろうか。
そう、いいも悪いもない。好きなほうを採ればいいし、使い分けてはいけないというルールもないが、たとえば宮本浩次、YUKI、野宮真貴、スザンヌ・ヴェガ。ビブラートのない声で通用するなら、それは「すごい声・強い声」だということだ。彼らがいきなりビブラート全開で歌い始めたらゲンナリするだろう。あっち(ただし、通用している人たち)は強くてすごい。ビブラートを使う派も、使わない派に対して「俺はこうだ」と主張できるだけの説得力を備えた声や音をものするべきではあるだろう。
長くなった。「ユるならどうユる?」についてはまた改めて。もとより正解などないが。そうそう、切っただけの魚や野菜、は、もちろんシンプルな料理であるが、自信を持って客に出せる「切っただけ」を達成するためにどれだけの努力と時間とコストを捧げる必要があるか。私はその「どれだけ」を文字にして糊口をしのぐ身でもある。
LX100
この春は、カメラでは満開の桜を撮らなかった。どうも気分ではない。