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いずこじ

陰陽、笹の葉、風の色。琴古流尺八、道中甲有り呂有り。

昆布と塩むすび

ヴォカリーズ。事典を開けば「一つ以上の母音を用いて歌う、歌詞のない発声練習法あるいは演奏会用作品のこと」とや。ラフマニノフが、当時ロシア筆頭のソプラノ歌手であったアントニーナ・ネジダーノヴァに捧げた作品「ヴォカリーズ」の作曲過程で、アドバイスを求めたアントニーナの問う「かくも美しき旋律に、なにゆえに詞のなきや」に、答えて曰く「なにゆえに言葉の要ありや。みましはみましの声と才もていかな美しき調べをも能く歌い得るものを。しかも言葉に恃む者に優りて深く見事に」と。

これは最近見たNHK「CLASSIC TV」再放送の受け売り。番組ではこの逸話を引いて、ラフマニノフが「声そのものの力を信じ、音楽にしたのです」とナレーターがまとめていた。「力を信じ」なんてのは大雑把に過ぎるあて推量だとしても、言語の意味を排し、シンプル・ミニマル・象徴・抽象の力を信じることは無論として、それらを最大限「生かした」一曲ではあろう。なんとのう本曲に、しかも一二三に連なり重なってくるイメージではなかろうか。

「先生が面白い例えを話していました。コンブとか、海藻がありますでしょう、それは海の中では波に揺られてきれいですが、陸に上げちゃうと、ベローンとだらしなくなってしまう(笑)。日本民謡なんかコンブみたいなもので、陸に上げてはいけないのだと。しかし、(これらの歌曲では)あえてそれをやったと」

こちらは、伊福部昭の最後の弟子・堀井友徳氏が、師の「ギリヤーク族の古き吟誦歌」「サハリン島先住民の三つの揺籃歌」「アイヌの叙事詩に依る対話体牧歌」などの北方民族に取材した歌曲群について語る中でのコメント

本曲も、もとはこのような海中の海藻としての調べであったはずだし、今も陸に上げない楽曲として吹き継ぐ人々が大勢いる。私は、門を叩いた先が「人前で本曲を吹く」ことを是とする会派であったゆえ、その会派や近隣諸派の審美眼の中で音を育ててきた。「あえてそれをやっ」ているわけだ。是非は云うまい。思うところにしたがって変転していくのが琴古流と、念仏のように唱えるばかり。

観察されれば素粒子でさえもふるまいを変えると識者の云う。イワンヤ、膨大な素粒子の集合体である人の発する素粒子の波たる音楽においてをや。やたらと旨い塩むすびも、お母ちゃんが子どもにひょいと出すのと、おにぎり専門店がお客に出すのとでは、供し方も食べ手の味わい方も大きく異なって当然だ。しかしヴォカリーズの如く、シンプルを恃む音楽の力というのは、様々なかたちの本曲に共通の美点であるだろう。ひとまずは、どこでどう食べてもとびきり旨い塩むすびを。なんならだらりの昆布もちょいと忍ばせようか。

先日述べた「そのもの」を奏したい云々というクダ巻きの、別仕立てのクダである。差さんせ盃、そういえば、産み字を延々と延ばすというのもヴォカリーズ的な志向だろうか。よしなしよしなし。


GM1 クモの巣にかかる蝶か。菩提寺にて。
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河宮拓郎(カワミヤタクオ)
性別:
非公開

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