尺八の稽古、というよりは整体に近かったように思う。「あなたの腰が悪くなるのは、カチカチにこわばっている肩の筋を腰がかばうからです。ほら、ほぐすならココですよ」といったテイの、あるいは桶屋が儲かる理由を掘って探ってついに吹く風に行き当たる、といったテイの。結果、久しぶりに厚めの皮がズルリと剥けた、ような。前々回に描いたポンチ絵は、当たらずとも遠からずのところまで来ていたが、それはたまたま近かっただけで基本の構造的な理解にはほど遠かった。要は、苦節楽節28年、メリがようやく身体で分かったのだ。
世の竹吹きは初学の頃、メリは「アゴを引いて」行うものだと教わる。しかし「アゴを引く」とはいったいどういう動作であるのか、これを正しく詳らかに教わり体得している人は、実は猛烈に少ないのではないか。というよりそもそも…いや、イワハナか。
「名人達人の吹奏図は誰も下を向いていない、首が前に伸びて、全く正面を向いている」という師匠の言をのみ引いておこう。少なくとも我々師弟の間において、メリはここから始まらないと嘘なのだ。さて整体は気持ちのいいものだが、大概の場合数日経てば元の木阿弥。せっかく伸びた背筋を再びイビツに曲げぬよう、用心、精進。前向け、前! 開け、喉!
その整体的稽古を通じて、今使っている特注の正座椅子がマズいということも明らかになった。木工職人さんに製作を依頼した当時、まだ骨折の影響が残る膝を限界まで曲げるのが恐ろしく、1°でも角度を稼げるならと座面にやや前下がりの傾斜をつけてもらったのだが、これが悪かった。前へズレる腰をとどめようと膝が踏ん張る、その半膝立ちのようなおかしな重心配分が(礼のみならず)吹奏姿勢に悪影響を及ぼしていたのだ。師匠には
「不動であるべき腰の礎石がグラグラか。座椅子は仮に腰が動いたにしても、盤石であるべき」「身体が楽器の一部なれば、その安定の、ザ・椅子には、竹同様の配慮が必要。これもまた、探求あるのみ」と至急の改善を命じられる。目的が「正しい吹奏姿勢を維持する」だけなら適当な大きさにカットしたスポンジブロックでもあれば事足りるのだが、「持ち運びに不便がない」「本番の舞台で使える」も、もちろん条件に加えたいから、少々頭をひねらねば。しかし、こんなことも自覚せず吹いていたとはなァ、と毎度の長嘆息。
LX100 宣伝。「あまから手帖」12月号は呑み助垂涎の佳店だらけ。表紙はこのタタキ。
という、実り多き九十九里稽古から帰ってくると、大学の後輩にして竹の先達たる畏友・國見政之輔君からCDが届いていた。おお、と楽しく聴かせていただく。
「尺八古典本曲断片 其之壱 鶴之巣籠」(画像は
小林鈴純さんHPより拝借)
シリーズ演奏会「尺八古典本曲断片」第1回のテーマであった巣籠の各流の演奏を、國見君のほか、先日の「風の色」で共演いただいた小林鈴純さん、谷保範さん、川崎貴久さんがそれぞれ吹奏したものだ。つまり、全曲巣籠だが同じ曲はひとつもないという「same same but different」。最もマニアックな部類の企画であり、よくこれがCDになったものだと他人事ながら実に嬉しい。思えばこの第1回「断片」を聴きに行ったとき、私は恐るべき虫歯に責め苛まれており、もはや鎮痛剤も全く効かず、演奏の最中にも呻き声をこらえるのに苦労するほどだった。おかげで打ち上げに誘われるもとても行けず、國見君を除く皆さんと知己を得るタイミングを遅らせてしまった。実に勿体ないことをしたものだ。余談。
生で何度も聴いている人たちの音を録音で聴く、しかも、現場でテレコ(古い)で、ではなくスタジオで録音されたものを聴く、というのはちょっと不思議な気分だ。コンプレッサーとリバーブがかかり、やや個性が均されてしまうのはやむを得ないこととして、みなさん本当にプロらしい音で、かつミストーンがほとんどないなあと感嘆。専門家たるもの、斯くあらねばと。とまれ断片、聴き手としてはもっと幾つも拾いたく、其之弐、其之参と続々のリリースを切に待望する。
さてこのCD、発売元はどこなんだろうと盤やライナーノートを繰るが会社名は見つからず、ケースの背表紙には「KTKK」とのみ。ナルホド、そういうことか。かくなるうえは、ここをご覧のごく少数の皆さまも、是非に勝手応援、もとい買って応援を。