忍者ブログ

いずこじ

陰陽、笹の葉、風の色。琴古流尺八、道中甲有り呂有り。

なるたけ鳴る竹

よく鳴る竹はいくらもある。息から音への変換効率と音量が大きければいいというなら、近頃はやりの工房がこぞって出しているアノ手の竹を吹けばいい。戸川純の「レーダーマン」よろしく、私と同じあなたがそこに/あなたと同じ誰かがそこに、旋盤や3Dプリンタのおかげでどれを買っても同じ音、の保証つきだ。

これだけの大馬力があって、これほどの超スピードが出るクルマです、というスペックに憧れるなら、そのクルマを買って、信号だらけの街を流して、一生使い切れない性能を秘めたクルマに乗っているという満足感を噛みしめていればいい。

私が竹に求めるのは、クルマの喩えを続けるなら、その竹をサーキットに持ち込み、翌日にはラリーコースに持ち込み、その翌日にはジムカーナコースに持ち込み、もちろん街なかも峠道も走る。そうして全力で使い倒した時の性能だ。もちろん性能というのは、竹で云うなら魅力ある音色、ということになるが。音量? 音程? そんなものは奏者がおのれの力でなんとかすべきものだ。楽器は、少なくとも竹は、奏者の力量と合わさったところに生まれる音色がすべてであり、いい音がしない楽器など楽器ではない。

いい音とは何か。これは簡単ではない。簡単だが、定義できない。定義できないから、音量が大きい、穴をただ押さえれば(あくまでチューナー的に)正しい音が出る、音の立ち上がりが(ヘタクソが吹いても)よい、といった数値化しやすい指標でもって尺八の優劣が語られがちなのだろう。あるいはそれは、いい音を実現するのがいかに難しいか、そんな楽器を商業ベースに乗せることがいかに難しいかの反証であるかもしれない。

私にとっての「いい音」も、忠輔さんの八寸管を3本使い継ぐうちに大きく(いや、それは小さな違いであるかもしれないが)変わってきた。私がいいと思う音そのものに私は今もって至っていないし、おそらく一生至ることはないが、それにどうやら近いものでいいから聴いてやろうじゃないか、という奇特な方がおられたならば、私の舞台をぜひ聴いていただきたい。幸い9月以降、出番はあれこれとある。


K-1 II

とは言ったものの折しも、その秋からの演奏機会がまたぞろ群れをなして飛んでいきかねない厳しい状況ではある。もちろん大運動会効果もあって人心は大いにユルユルだが、この感染爆発のスピードは菅もとい官の無策と民の思考停止によるというより、やはり変異種の伝播力のえげつなさによるところ大と考えるのが自然だろう。お祭りをしながら感染を抑えましょうと、よくそんな撞着を国策にできるものだという浅ましき体たらくだが、ワクチンと変異の追いかけっこ、もしこの1レースのみで決着するなら、それはほとんど奇跡と呼ぶべき大ラッキー。ヨノナカ、そう簡単ではない。
PR

コメント

プロフィール

HN:
河宮拓郎(カワミヤタクオ)
性別:
非公開

P R