去る12日の第27回くまもと全国邦楽コンクールにおいて、奨励賞を受賞しました。
前々回は本選に進むも賞典外、さらに前回はテープ審査で落っこち、「ああ、欲どしいオッサンがしつこく参加するなよってことかいな」と大いにいじけたものでしたが、今回のコンクール後の懇親会で審査員の先生方の講評をいただくにつけ、手前の無策がもたらした結果をまともに受け止めていなかった、その愚かさを恥じることとなりました。正しく響かせれば、音は通る。
一方、初参加の第23回で(ビギナーズラックとはいえ)優秀賞はいただいているわけで、比較すれば今回は “残念な” 結果。オッサンであってもしつこくても賞は獲れる、この当たり前がはっきりした以上、そりゃもう捲土重来、であります。ただ、遠音をつごう二回吹いてしまって、次は何を吹けばいいのかしらん。
三度目ともなれば、なのか、緊張はほとんどせず、しかしまあヒリつく舞台ではあるので竹がいつものように鳴るわけもなく。おまけに私が構えていたのは、昨年の国際尺八コンクールで吹いた先生竹とは違う八寸(なぜそうなった?の経緯は省略)。自分が吹けているのかいないのか、手応えがあまり感じられませんでした。吹き終えて控えに戻り、かくかくでありましたと九十九里の師匠にメールすると「お疲れ様。全部聴きます。そのあとランチしましょう」と。30秒ほど意味が分からなかったのですが、そういうことでした。
となれば、舞台の私を最も細かいところまで観察検分していたのは、審査員の皆さまには失礼ながら、当然我が師であったことでしょう。その師から、帰路分かれた後にいただいた以下のメールが、今回のコンクールでの私はどのようであったか、ひとまずコンクールを終えた私はどんな道を往くべきか、その答えであると確信します。
では、以下に。我が師の来し方、思うところ、その片鱗を知っていただくにも佳き機会。本来は私信であれば、敬称略など万事至らぬ責任は引用者にあれど、どうかご寛恕を。
LX100 草木のボリューミーな茂り方が、やはり本州とちょっと違う。
いやはや、
お疲れ様でした。
★新旧竹の話
先ず、熊本の同じホールでの遠音の印象は、旧竹の方が「風の色」は濃く、個性的でした。
★新竹は、芯鋭く、色よりワザがよりクッキリします。
その分、線が細く聴こえる印象になるでしょう。
更に、全く違うものの、甲走る印象は、今時の多数の竹の響き寄りかもしれません。
色は吹手で、息の入れ方でほぼ決まるのですが、道中ここまで来ると、新旧の差は限りなく狭い筈にもかかわらず、私にとっては右と左ほど違います。
夏の本番前の早目に聴き比べたく思います。
現代曲が気になることはさておいて、古典(外曲、本曲)ですが私が聴いたことのない音世界があると信じます。
古典芸の歌舞伎。当初、あぁ、また助六か、と。
ところが、尾上松緑さんを袖から見たら、目から鱗。
助六がイキイキとして、全く同じ台詞ながら、振り幅が、スケールが別格。
それ以後、脇役も含めて、役者それぞれ、どんな芝居をするんだろう、と楽しみになったものでした。
古典の名曲と言われる袋は変幻自在、無辺の広がりがあるものと信じたい。
古童→琴童→五郎、鈴慕と来て、此処でおしまい。
先はありません。
なんて事は、ない。
その先を見たい、聴きたい。
世の眠りをを覚ます遠音、古典。
隣の芝生は美しい。
されど、隣の人の古典は、外国人が器用に着物を着ている違和感以上のものはない。出稼ぎは出稼ぎ、本領ではない。
竹の話。
吹手は客席の聴き手ではない。
三曲合奏の糸の先生にも新旧の印象を訊いてみてください。機会あるごとに、それぞれの印象を訊いてみてください。
馬肉と牛肉とどちらが好きかと問われれば、馬肉が好きと答えるそんなオハナシでした。
・・・・・
前便補遺。
★田中さんの竹の淵源は、三世順輔の音色、息の入れ方、また、三世の吹料である初代門人の山崎竹隠ほかの竹の採寸等々にある。
(中略)
田中さんは、学校を出て旋盤工になり、父親は藝大卒の仏師。田中さんが竹を吹き始め、どんな縁で四谷に来たのかは失念したが私と前後の筈。
先ず、吹き方、舌の位置、息の入れ方を踏襲、研究熱心で職人気質の器用さと割り切りで、折々に、三世が試奏し、「感覚的」アドバイスに呼応しながら、戻ることない先へと展開し、その最終形に近いものが、現吹料の新旧二管と言っても良いでしょう。
田中さんも私も三世の音色と天才的独断演奏には敬服していたものです。二世とも全く違う、初代と川瀬里子の孫の血が色濃く出たのかもしれません。田中さんは二世の吹き振りも好きでしたね。
(中略)
★そんなわけで、私の宝は、目の前で、三世を常に聴き、運指を観察し、阿部桂子、井上道子、小林玉枝、矢木敬二、藤井久仁江らとの下合わせを同室で至近で聴けたことです。三絃の迫力、撥サバキ、絹をかけた筝の音色。楽器屋の「鶴屋」との微妙な調整の気合も。茶飲み話の芸談。
三絃では、井上道子さんが忘れられない。脱力のバチの振り幅の大小自在。気合ののった音量と音色、サワリの余韻。
目を閉じて、自動人形のような、オリテキテイル、そんな演奏でした。
★何が言いたいのか。田中さんの竹と私のメタファーの土台は、良くも悪くも三世順輔にあるということ。
すなわち、三世順輔の音色を良しとし、それを色濃く受け継いでいるのは、(中略)河宮拓郎であること。
田中さんの喜びもその点で私と同じことに思います。自分の理想を具現化、音にしていることにおいて。
勿論、色の近似は、息の入れ方であるが、身体が楽器の一部である以上、百人百様も当然。月から見れば、良い意味で独特の近似でしょう。ほい、旧竹は、地無しでしたっけ?三世の吹料も地無しだったはず。竹隠さんも、竹材が肉厚で良ければ、理想の内径を削り落とすだけで製管し、足りないものに地を入れて仕立てたようです。
此処迄書いて、思うことは、私が旧竹の響きの方が好みなのは、こんな潜在意識があるのかもしれません。
初代順輔から三世までの、川瀬里子の芸筋を含めて、その名誉のために、
更に河宮拓郎の立ち位置の再認識のためにも補足します。