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いずこじ

陰陽、笹の葉、風の色。琴古流尺八、道中甲有り呂有り。

かんたんなたんかん

鹿の遠音を連管で吹き始めるのが好きではない。あくまで私にとって(なんだか至るところにこの断り書きを置いている気がする)、鹿の遠音は二者の差異や対立が止揚へと向かう弁証法ストーリー。いきなりユニゾンを奏でてはもうオチだ。

鹿の遠音の演奏前アナウンスなどで、「奥山に」の歌がまるでセットであるかのように持ち出されるのも好きではない。紅葉を踏み分けて鳴く秋の鹿は、歌の中では恋の相手を探して鳴くものと決まっているわけだが、私は遠音を聴いても(吹いても)恋慕のあはれをかき立てられたことはない。外典とはいえ本曲であり、煩悩を肯定的に描写するような曲はNGだろうし。…いや待て、子煩悩も煩悩とすれば巣籠もNGだ。外典は煩悩を扱える? あるいは、叙事・叙景だからではなく、煩悩を扱うからこそ遠音や巣籠は外典に位置づけられる? 再考が必要だ。

とまれ、もしあのハゲしい表現が色恋のさまを隠に明に喩えているのだとしたら、相当どぎつい曲ということにならないか。まして、「雌雄の吹き分けができていない」などと言われた日には「は?」。どなたが雌雄の曲とおっしゃったので?

ほか、フレーズの最後の音がまだピークを過ぎていないのに次のフレーズを接がれるのも好きではないし、譜を置いてこの曲を吹くことはもちろん、譜を置いて吹くのを見ることも好きではない。仮に吹き合わせるなら身勝手ながら、私が担当フレーズのくり返しの回数を間違えて相手のパートに割り込んでしまったとして、眉一つ動かさず私のパートに入れ替わってくれるお人でないと困る。昨秋お手合わせをいただいた倉橋容堂先生などは、これを軽々と(つまり、私が事前に打ち合わせていた吹き順を間違えた!)。

などと思いつつ京都に越して以来15年ばかり吹いてきて、今や遠音は単管で吹く方がいろいろラク&確実でいいなあと思うようになってしまった。止揚のための正負のエネルギーをひとりで曲に籠めることは簡単ではなく、その骨折りから遠ざかること、もしくはそちらへ体重をかけずにいることで、私の遠音は長らく進歩していないかもしれない。それでも、初めてそらんじた琴古流本曲。幾星霜を経て、無意識にであったとしても、なんらかカワミヤっぽい曲にはなっていそうだ。

と、こんな益体のないことを考えるうち、8月の会の本曲は遠音独奏にしようと。一二三は昨秋大きな舞台で吹いたし、真虚霊はまだ練り中の、夕暮は長すぎる、雲井獅子は短すぎる。遠音がベストだ。遠音と云えばこの曲、近頃なにかと遠方でばかり吹いている気もする。江戸やら紀国やら肥後やら。さしずめ此度は、遠音の帰洛か。そのふた月前にまた肥後出張もあるが。

来月は一年以上ぶりの九十九里稽古だ。師匠の「それ、好きじゃない」を、できるだけたくさんいただいて帰ろう。


LX100

次の登板でまたやらかすとはさすがに思わなんだ。
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プロフィール

HN:
河宮拓郎(カワミヤタクオ)
性別:
非公開

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