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いずこじ

陰陽、笹の葉、風の色。琴古流尺八、道中甲有り呂有り。

「能成候ヘバ」という条件つきで

「画(え)もと法なく又流なし」。まいどテレビアンチョコで恐縮だが、つい最近の「開運!なんでも鑑定団」で聞いた、江戸後期~明治の画人・菊池容斎のコトノハ。この番組、音楽家こそほぼ出てこないが、画家やら陶芸家やら彫刻家やら、時代に名を残した芸術家たちの人生や考え方をダイジェストでまとめてくれるので、たまにこういう刺さる言葉が現れる。

絵画に法も流もない、は間違っていないが、その強い断定は、絵に法も流もあった時代にこそあえて言い放たれたものであっただろう。誰にも教わらずに絵の天才になれるなら、法も流もハナから考慮に入れる必要がない。教わればその美には共通語としての法が介在することになるし、教えを乞う者は基本的に「この人に教わりたい」という人から教わるわけで、さればその教えの授受には一定の流れが生まれるのが自然だ。

しかし、教わる人が育ちに育ち、とうとうある世界の頂をうかがう場所にまで至ったときに、その法や流は概ね邪魔になるだろう。法も流もいわば同調圧の一種ではあり、それを(少なくとも一旦は)捨てないと真に自由な創造はできないからだ。茶人・川上不白の云う「弟子ニ教ルハ守、弟子ハ守ヲ習尽シ能成候ヘバ、オノズト自身ヨリ破ル。離ハこの二つヲ合して離れて、しかも二つを守ルコトナリ」、守破離のコトワリにも通じるところだろう。

すなわち、テッペン至近の人たちにとっては「法なく又流なし」は真理であるが、それ以外の人にとっては「法や流を相対化できるくらい法と流に通じなさい」あたりが “適当な” 箴言と言えそうだ。そして、テッペンに立ってしまったなら、もはやゴタクは要らない。その一足が道である、の、そこは境地であるだろう。


GX7Ⅲ あえて彩度を上げたが、記憶色(記憶光?)はもっと派手だ。もっと広角で寄って撮ればよかった。

来る10月21日の「第33回 三曲鑑賞会」の舞台に、オーディション合格者としてデビュー(?)させていただいてからなぜか3年連続で上げていただけることになり、今年の出演曲は、竹の群像(山本邦山 作曲)。現代曲、なかんずく竹の重奏曲はカタカナで書きたいニガテの極みなのだが、「それ以外の人」たる私は、せいぜい精進して法と流に通ずるほかはない。

そう、先日、この曲の第1回下合せが行われたのだが、曲を一定の到達点まで持っていこうとするときに生まれる志向が興味深いなァと思ったものだ。

今回の演奏メンバーは、ソロ+重奏パート8名の、計9人。うち琴古系は私を含め2人。で、曲は邦山師の手になる有名曲。となると、もちろん「音楽の流れ」は非琴古寄りになるのがナチュラルだと思うのだが、その方向というのが概ね「ヘンなこと/勝手なことをするな」ではないかなと感じられるのだ。それが面白い。枝を打ち、粒を揃える。それが非琴古の「流」なのかもしれないなと(非琴古とは何だ、と問う野暮はお控え願いたい)。

なぜにそんな感興を覚えたかというと、やはりこれまでに何度か出演させていただいている京都三曲協会定期演奏会での「琴古流諸派」くくりで参加する竹の重奏曲の仕上げ方と “だいぶ” 違うからだ。いや、違うというよりは、この琴古流諸派で重奏をやるときの志向は(非琴古に比べればだが)ノールールに近い。そして、私が身を置いてきたのも概ね、そういうノールールが空気を満たす空間であったと思う。ゆるいが、そのゆるさにも法や流は間違いなく滲んでいる。良くも悪くも、変わりゆく琴古流。

「どうも音のアタマで、孔を指で打ってる人がいらっしゃるようなんですが…」。あっ、それ私だ。あの口ぶりだと、「今回はそれ、やめときましょうね」ではなく「当然のことですがやめてくださいね」のニュアンスだったな…ブルルッ。そんな感じで、察するのが苦手(こちらは漢字)な私ながら、なんとか空気と流れを感じ取って、いっときにせよその流体力学に溶けこもうとしているのである。次回の下合せからはきっと「はいアナタ、指で打ってる!」と叱られるだろう。ほぼ無意識レベルの、話し始める前に「えー」と言ってしまうくらいの強固な “法” ながら、なんとか矯正に挑戦してみよう。

というか、そのあたりのヘキを除いたとしても、まだまだ吹けない難所があるのだが…。古典をいくら吹いてもタンギングはうまくならんですな。

そんなことより、3日間吹けていない。ヤバい…。
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河宮拓郎(カワミヤタクオ)
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