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いずこじ

陰陽、笹の葉、風の色。琴古流尺八、道中甲有り呂有り。

メリ

昨年に続き、またも留学生くんに短期レッスンをつけるようになって、うつむかない・首を折らないメリの大切さを痛感するこのひと月ふた月。

竹を吹く、を構成するさまざまなメソッドのうち、大きな柱のひとつは「アンブシュアを可能な限り変形させず固定して吹くこと」であるだろう。理由は当たり前のことながら、アンブシュアを変化させるということは楽器の最もデリケートなパーツの形状を「吹きながら」変更するに等しく、そのような大変化にいちいち対応しながら音をつないでいくことは困難であるうえにナンセンスであるからだ。

アンブシュアを固定し、そこへ息を送り込むための胸腔内の圧を一定に保つ。この大原則を守りつつ半音を出す工夫・技術こそがメリなのであり、そのためには…
 
・うつむかず、目線を下げず、頭を水平に引く
・上記アクションにより喉の気道にクランクを生じさせ、強すぎる息が出ないよう抵抗をかける。
・上記のアクションと並行して、歌口の開口部を下唇の前部で塞いで音を下げる。この際、首を折って「唇で孔を迎えにいく」のがありがちな大間違い。頭を水平に引いて後ろに移動したアンブシュアを「竹に追わせる」ことで塞ぎにいくのが正解だ。となると、頭はうつむかず立ったままだから、竹を少し上に起こす(やや水平に近づける)ことで穴を塞ぐことになる。
・下がりきらない音高を補うため、必要に応じて指で孔を塞ぐ。
・上記の一連において、一貫してアンブシュアに変更を加えない。メリ音のキャパに見合う息の流速・流量を調節するのはひとえに喉のクランクであり、唇をカリより締めたり緩めたりするなどアンブシュアによる調節でコントロールしてはならない。絶対に。
 
これが、私の思う、というより、私の教わったメリだ。すなわち、メリのメソッドとは大部分が「下唇での歌口の塞ぎ方」に係る事柄である。アンブシュア自体の俯角仰角をメリのたびに変えるよりも、アンブシュアは水平で一定させたまま歌口側(つまり竹側)を手の操作で追随させる方がずっと安定するし、テコの原理で微調整も効かせやすいから前後との繋がりがスムーズになる。

目指すところは「カリもメリも同じアンブシュアで吹く」ことだ。乱暴に云えば、指で孔を大きく塞いだりかざしたりする操作は副次的なフォローに過ぎない。うつむいて歌口を塞ぎ、まして音が上ずらないよう・割れないよう肺のふいごにかける圧を弱めてソロッと吹く、などというのは、正しきメリから大きく外れたダメリ。よしそれで音高が合ったとしても、次のカリに移るときにアンブシュアは再び大きく崩れる。そんなメリカリを繰り返していれば、一曲を正しく吹き通すなどほとんど不可能だろう。


K-1 Ⅱ

ということを、習い始めの人がいきなり理解・習得することはもちろん困難だ。教える側が根気よくすり込んでいくしかない。論理的な言葉で明快に。

私は師匠以外の人間から竹を教わったことがほとんどないが、メリの勘所についてさまざまなレベルの竹吹きが言及するのを聞くことは何度かあった。そのとき「そうそう、そうですよね」とブンブン頷けたような記憶は、なぜだかない。吹奏の勘所は秘中の秘であり、門外ではあえてハズしたことを言って韜晦する、そんなセクト主義的なマナーでもあるのだろうか。

さても、今年の留学生・マックスくんがニューヨークに帰るまであと3週間。“最後の授業” までに、最短距離で勘所へ辿りつけるよう気張らねば。そのレッスンを無駄にしないよう、できれば楽器を携えて帰国してほしいが、たとえ安いプラ管であっても買いなさいと強制することはできない(しかも、どこのプラ管が使い物になるのか私自身が分かっていない)。といって、私がヤフオクで集めた何本かの忠輔銘も、毎年やってくる留学生にホイホイ渡していてはすぐ底をつく。どうしたもんだろうか。
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河宮拓郎(カワミヤタクオ)
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