昨年、NHK邦楽オーディションに初めて参加し(て落ち)た折、休憩時間にお話しした参加者さんの曰く「某先生はレコーディングの日に『今日は録音だから頑張らなくていいんだ』とおっしゃっていた」。その意味するところは理解できる。
放送は、マイクで録った音をそのまま流すわけではない。強音部、弱音部のコントラストが強すぎると聞きづらいし出力レベルも稼げないから、その凸凹をある程度均して、つまりレベル的にある程度まとまりのある音のカタマリ・ツラナリにして放送するものだ。あえて音を張って凸凹を作っても、その苦心むなしくピークは枝打ちされ、あるいは張った音を出すために必要な力みやノイズなど、要らぬところが実際の演奏以上に強調されてしまうおそれさえあるだろう。だから、むやみに頑張らず、放送における出来栄えを意識した演奏を行う。経験豊富なプロフェッショナルとしてのひとつの見識であると思う。
だが、放送でオノレの音を聞き終えてひとまず思ったのは、力の限り、思い切り吹いて心底よかった、ということだった。私如き、楽に吹いて曲にするなど百年早い、のも勿論であるが、それ以上に、師匠に教わる琴古流の重要な項目としての「押す」と、それによってつくられる音のスケール、これらを、かりそめにも自分の音・調べから脇に置くことは絶対にできない。やってはいけない。やらなくてよかった。この先いつになるか分からないが、押して突き抜ける、という音の志向と運動に曇りが出てきたなら、私の尺八もそろそろ、であるだろう。
もちろん、上記の枝打ち的ミキシングは私の演奏に対しても施されていた。ウヒのインパクトは随分抑えられていたし、ナヤシからの膨らみ、カリ音の押し切りなどさまざまなピークが、私の聞こえとは違ったように、むしろ不規則と思える規則をもって調整されていたと感じる。逆に、メリ音はほぼすべての音が嵩上げされていた。ああ、これだけのメリのボリューム感を生演奏で達成できればいいのになと、お化粧された自分の音に思う。笑止千万。
とまれ、これが「音を商品にするための録音」。しかも、ピンキリのピン。このフィルターを通すほかに、音をいちどきに多数の人に届けるすべはない。生演奏が難しいのと同様に、とても奥深く、面白く、挑戦の甲斐ある機会であったと思う。できれば、またあの東洋一という巨大スタジオで、押し切る録音に挑んでみたいものだ。
LX100 さて、そろそろうちのヨソジ留学生がこの辺りから帰ってくる頃合いだ。
言うまでもないが、出来栄えという側面においては、斯道に携わる方ならずとも容易に分かるほど、それはもういろいろと盛大にやらかしている。フレージング、技、ブレス、改善を要する瑕疵の嵐だ。師匠からの長~い赤ペンメールもとうに着弾。それでもどうやら巷間に曰く「処女作にはすべてが詰まっている」あるいは「処女作からは逃れられない」そうなので、私はこの不出来な鹿の遠音と死ぬまでつき合っていくことになるのだろう。いっそ楽しみではある。
有楽伯の某くんは、「ちょっと資料室へ」と雲隠れして放送を聴いてくれたそう。叔父はラジオを新調したとか。親戚一同、楽友・仕事先の諸兄諸姉、諸先生方、師匠、そして、まだお会いしたことのない皆々様、ご高聴まことにありがとうございました。聴き逃した、高校野球や臨時ニュースで聴けなかった方もご安心を。あと4時間と少々で再放送です。