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いずこじ

陰陽、笹の葉、風の色。琴古流尺八、道中甲有り呂有り。

目指せエトワール

録画しておいたNHK「ローザンヌ国際バレエコンクール」を観る。私? 最後に踊ったのは小学生時分の盆踊りだ。学生の頃、半ば引きずるように連れていかれたクラブでも頑として踊ることを拒んだほどで、バレエはおろか踊りというものに一切の見識はなく、よって細かな技の優劣など見分けられるはずもない。それでも、1位を獲ったアメリカの女の子、2位を獲ったブラジルの男の子が他を圧して飛び抜けたレベルのバレエを踊ったことは、彼らが舞台で身体を動かし始めるやすぐに分かった。3位に入った女の子を含め日本人入賞者も複数いたなか口はばったいが、他のコンテスタントがやや色あせて見えるほどすべてのレベルが違っていた。

当たり前だが、同じジャンルのものを並べて優劣を競うのだから、勝つには他より優れていなければならない。そして「優劣」の評価ポイントが見極めにくい場、あるいはそれが多様すぎる場であれば、トップを獲るための最もシンプルで確実な方法は、他を圧倒することだろう。なにをもって「圧倒」とするか、そんな問いさえ発せられることのない、ド素人を含め誰もが見れば分かるような圧倒だ。それが難しいなら「傾向と対策」を予習復習するしかないが、ヤマは外れることもある。そうした見極めにくく多様な評価基準の網が張り巡らされた場に立つとして、私はどちらを決めこむべきだろうか。

さて、ローザンヌの選考過程にはクラシックとコンテンポラリーの2種目があり、踊り手はその両方を踊ったうえで選考を受けていた。このコンテンポラリーが、バレエを知らない私にとってバレエよりもっとずっとさっぱり分からなかった。ダンスの意味が分からなかったのはもとよりだが、もっと分からなかったのは「バレエの踊り手を選りすぐるために、なぜコンテンポラリーを踊らせる必要があるのか?」ということだ。果たしてあのような踊りでバレエの良し悪しがはかれるのか、また、はかってよいのかと。

第1回のコンクールが行われたのは1973年。コンテンポラリーが選考過程に加わったのは1999年のことで、それまではクラシックと、コンテスタント自らが(おそらくは在来の曲に)新たに振りを付けたフリー・ヴァリエーションとで選考が行われたそうな。「バレエのコンクールなんだから、バレエで選ぶ」というアタリマエからすれば、この旧選考過程の方がよほどまともだと思えるのだが、これは素人の浅はかさなのだろうか。解説の山本康介氏(もちろん存じ上げないが、著名なバレエダンサーであり演出家であるそう)は「コンテンポラリーの “着崩しの美” を表現するためには、まず基本の “ちゃんと着る”、つまりクラシックができていなければならない」という意味合いのことを述べていたし、言葉の端々に「まだ踊りの定まらない10代のコンクールにコンテンポラリーは必要なのか」という疑問、というより難詰が滲んでいるように聞こえたのだけど。

今を生きる人々は、古く佳きものを愛しながらも、他方で新たなものを生み出したいという欲求から逃れることはできない。当然かつ健全な志向であり、ゆかしい古典もかつては最新作。ご同様の産道を通ったのだ。…ということを理解しつつも、コンテンポラリーのコンクールが必要なら別口でやればいいのにサ。


LX100 近頃は京都・三重で氷の世界を垣間見ているワタクシ。

さても我は竹の子、古く佳き藪に棲むが、もちろん旧態依然を憎む。本当に美しいものに新しいも古いもない。古人も私も、先人たちの通った道を駆けながら、各々が要らぬと思うものを捨て、要るものを身に纏いながら花深処の最奥を目指す。できあがる音楽が誰かと同じになるわけはなく、良くも悪くもワンアンドオンリーは必然なのだ。「師匠のようになりたい」は衷心からの願いだが、「師匠と同じ芸を身につけたい」が最終目標であっては断じてならないし、それは不幸なかたちでしか実現しない。…いや、どこが本体なのか分からないつぎはぎの鵺になるよりは、まだしも幸福か。
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河宮拓郎(カワミヤタクオ)
性別:
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