なんだかもう、師匠からのお便りのほうが私の駄文より億万倍の実がある。きっとこのブログは赤くなるほどに充実していくだろう。
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和食料理人が、フレンチ、イタリアンと転職し、また和食を作れば、良くも悪くも、学んだことが反映されるでしょう。
清元、常磐津、長唄、新内、義太夫、民謡、津軽、それぞれの三味線は、門外漢、外国人が聴けば区別し難い近似のものもある。竹の都山と琴古を聞き分けるような。
この繊細な棲み分け、美意識こそが日本人の感覚なのでしょう。
音階が五音だから竹の手孔は五孔、されど十二律を吹く。ツクル音が七音。メリカリ、半開、カザシ等々で苦労する?音の方が多い。単なる合理性を追うなら、指は十本、あと五つ手孔を開けられるのにそれをしない。音程ではない、色、表情を変えるのだから。
コントンに目鼻手足をつけたら死んだそうな。
歌口は尺八、本体はフルートのそれ、オークラロ。
全く盾と矛の物語。誰も継承しない。
縁あって琴古流、決して狭い川ではないはずだ。
「民謡を吹いてはいけない」
良く耳にした。
必ず悪い癖がつくと。
勿論、音楽に上下は無いのだが、
「あれもこれも吹ける」を嫌う。
「良い音」ねいろが花深き處へ通じる。
漫才、落語、喜劇、4コマ漫画等々で「笑う」
絵画、小説、演劇、音楽等々で「感動する」
尺八は直系かは別として奈良時代から続く、日本に自生する真竹を使い、絶えることなく、吹き継がれてきた唯一の縦笛。
竹が、竹本来の音が、日本人の心に響くのは、証明されているようなもの。
琴古の人が、都山の製管師の、歌口だけバチ型を平気で吹く時代かもしれない。音程に流派は関係ないのだから当然と言えば当然だが。
しかし。
本末転倒。
小さな違いを大きな違いとする繊細な感性は、自分好みの音、音色や音量を求めて、製管師を抱えあれこれ要望し、或は、共につくり、共通の価値観のなかで育んできたもの。
竹の音色は人の声に似る。ピアノの一音は殆ど楽器の音だが、竹は唇、歯列、口の中、舌の位置、、、
身体が作る音。
ユーチューブに何と外国人の製管師?
音色はケーナ、日本民謡、メリカリの意識なし、無論アタリなし。
こんな事になっていたとは。
和洋のジャズの尺八は、音色は皆同じ。技法はフルート。
家元は山本邦山師と言ってもいいかも。中尾都山はある意味、欧化主義の人。後の人が、ジャズに行き着いても何の矛盾もない。
尺八が単なる楽器として世界に出て行くなか、尺八が、三絃が育った日本の風土、美意識、土壌成分を、精神を、物語を探り感じることが、目指す音色の淵源。
眼の色、肌の色の違う子供達が近隣にもチラホラ、日本人になってゆく。
保守本流は既存ではない。問い続けて、掘り起こして、作り続けてゆく。
それは聴く人々を目覚めさせる運動かもしれない。
奈良から現代まで生き残っている、受け継がれてきた事実を担う尺八の本領を安堵すること。
その魅力は決してジャズも吹けることではない。
日本人が共感する音色を第一義に、只管、日本刀を刃物を研ぐように日々鍛錬を。
この肝がすわれば、行き先を心すれば、道中、何と交わろうが赤くはならない。得るもの多し。
DMC-LX100
年が明けて初詣に行っても、もうおみくじを引く要はない。道先はすでに師匠が照らしてくれている。
それにしても、ネット動画におけるデタラメの横行には師匠ならずとも呆れるほかない。新大陸よろしく “発見” されてしまった尺八がただの楽器になっていく流れはとどめようもないが、しかし。コントンを混沌としてしか知れない・分かれないのは不幸なこと。分からないからと、そこへ福笑いの目鼻を得手勝手に付けてしまえばコントンは死ぬ。さらに不幸なこと。
「文化」という言葉は、明治期においては「文明開化」の略語でしかなく、culture の意味で使われ始めたのは大正期からだという。この転用というか翻訳というか、正しかっただろうか。分かるは分ける。ある習慣や傾向は、それ単独では文化ではなく、閉じた世界における標準でしかない。誰かがそれを見つけ、彼我を分かつ相違を認識したときに文化は生まれる。語が備えるべき意味からすれば「分化」のほうが正しいように思うが、こちらはもう別の言葉として定着してしまった。
増大したエントロピー、グローバルスタンダードの福笑いに文化的価値はない、とまで言い切りはしないが、少なくとも私はそちらに用がない。18世紀にシラーの言う。「汝の行いと芸術で多くの人の心に喜びを満たせないならば、少なき人の真の喜びのためにそれを成せ」。凡才を奮い立たせ、強力な味方となってくれるこの一節は「多くの心にそれが適うのは悪しきことだ」と続く。シラーが亡くなって200年と少々。さて、どうか。