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いずこじ

陰陽、笹の葉、風の色。琴古流尺八、道中甲有り呂有り。

水をおくれよ

「moonriders ANIMAL INDEX and more 2025」を聴きに東京まで行ってきた。大学4年あたりで聴き始めて30有余年、脳ミソの半分くらいはムーンライダーズでできているはずの私が、初めて生を見聞きしたのだから、個人的には大事件の部類に入る。

これまで彼らのライブに見向きもしなかったのは、ライブ音源とスタジオ音源とのあまりにあまりな落差が大きな理由だった。生演奏と生歌では到底再現できないほど凝ったことをやっている、偏執狂的なスタジオワークのパズルの上に成立する音楽である、それはよく分かる。ならば生で聴く必要もあるまいと思いなし、ライブには食指を全く動かさずにきたのだが、12年前にかしぶち哲郎、一昨年には岡田 徹を喪って、音盤の向こう側にいる生きものとしてのムーンライダーズがこれ以上 “おなじみの” でなくなっていくことを無意識的に恐れていたところへ、流れてきたライブ情報に反射で食いついてしまったのだろう。
アルバム再現ライブのターゲットが、何百回聴いたか分からない、また聴かなかった時期もない「ANIMAL INDEX」(1985年発表)であったことも、もちろん大きい(ま、この時期、80年代~90年代前半の彼らのアルバムはどれもその調子で聴いているのだけど。ライナーノートはみなボロボロだ)。アルバム40周年なのか。今気づいた。

日本青年館ホールは初めて。たとえば武道館のたった10分の1とはいえ、キャパ1000人を超えるハコをライダーズのファンだけが埋めているという状況は、にわかには信じがたく、異様な感情・感興・感銘をもたらす景色だった。当然、私を含め大多数はおっちゃん・おばちゃん、さらにその上、という年齢層であったが、20~30代とおぼしきワカモノもかろうじてちらほら。若いのにエエ耳してるやん、と上からシンパシー。

曲の一つひとつについて感想を述べる…などは他人よりまずオノレに対する野暮であるからよすとして。ライブを通して感じたのは、「30年以上間断なく音源で聴いてきた曲を、今さら初めて生演奏で聴く」というのはかなり異常な体験であるのだろうという手応えだ。スコップ、またはユンボで無遠慮に、自分の地層を学生時代まで掘り返して土をほぐすような、ゾクゾクと気色悪くも嬉しい感覚。
思わず口ずさんで頭を揺らせば、周りの聴衆もご同様に「ムーンライダーズの曲でノッている」のだ。これは「ムーンライダーズは最高だ」をごく身近な数人としか共有してこなかった私にとってショッキングなシーンだった。それが愛しくて切なくて、心強い。

私をライダーズの沼に引きずり込んだ悪友Aは、入場前に一杯引っかけて曰く「バイオリンとトランペットがいる(=武川雅寛)ってことが、ムーンライダーズを特別なバンドにしてる大きな要因だよね」。たしかに。特にバイオリンが醸す哀愁や含羞、エキゾチシズムを帯びた音楽は、はっぴいえんどと決定的に違うところと言ってもいい(そう、余談ながら鈴木慶一がはっぴいえんどに加入しなかったのはなんと幸運なことだったろう。結果論かもしれないが、両者は混ぜると濁る風だったのだと思う)。
そして、ひとりでは持て余す厭世、孤独、傲慢、堕落、自傷他害、悪口雑言、自己陶酔、自己否定、ダンディズムやオナニズム、ハードボイルドをたまに持ち寄り、さまざまな種類の協同作業と各人が持つ最先端の音楽で「薄める」(覚えたてのアルコールで血をうすめるように)ことによってライダーズの曲にする、これが彼ら・ファンの双方にとって最大幸福を生み出す優れたシステムであったことも改めて実感できた。

とまれ、久しぶりに火がついた「ムーンライダーズを(今よりもっと)聴かなければ」の自分内ムーブメント、どうやって消化していこうか。ライブに行ったのはとてもいいことだったけど、だからといって通い詰めるようになるかというと、それも私のライダーズへの関わり方としては違うような気がして。


R8 pro このロゴはメンバーの誰かの身内さんのデザインと聞いたような。味はある。

尺八に全く関係ないことを書いたが、尺八とムーンライダーズとの間には共通点がいくらでも見つかる。私が両方を好きなのは、もちろん何らかの必然であるだろう。あ、そういえば「夢が見れる機械がほしい」ではサンプリングされた琴古流らしき音が、しめて数秒ながら使われているな(ライブでは残念ながら聞こえなかった)。というわけで、関係なくはない。
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河宮拓郎(カワミヤタクオ)
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