気がつけば5カ月ほったらかしていた。
イイワケを書いても暗くなるばかりで益なし。今日を復活の日と決めて。
ゆうべ考えたこと。
「音の出初めを飛ばして途中から聴くなら、尺八の音とブザーの音とに選ぶところはない」(大意訳)と師匠の云う。この言葉は丸呑みOKの真理であるが、これを敷衍し、若干意図的に曲解すれば「同じ状態の音をただ伸ばすことは、尺八固有の音を放棄するに等しい」に繋がる。これは私の思う竹の音のベシ・ベカラズに含まれる。
ただし、自分の音が常に微分的に動いているかというとこれが難しい。ひとさまの音を聴いているときは、変化の無い音が0.5秒も続けば「変わり映えしないぞ、退屈だぞ」なんて内心くさすくせに。
とまれ、琴古流の音とフレーズは笹の葉の構造をもってよしとする、のが基本であるが、レーツロのハズミなどでは「棒吹きでいいからズドーンと!」と師匠に叱られる。これが難しいので、まずは棒吹きの達成を目指す…で勿論いいのだが、それが叶ったなら、即座に棒吹きを「同じ質・量の音を一瞬たりとも持続させず、微分的な変化のあるように」すなわち「尺八の味が感じられるように」工夫しなければならない、と思っている。
この点、都山流は古典においてもアタリの大方を捨てているので、味付けを琴古と比べたとき(基本的には)薄くなりそうに思う。つまり琴古と同等の味の濃さを得るためには、音の初めではなく、継続音における微分的変化での味付けに注力せざるを得ない、というのが都山流の外に居る私の観測だ。
例えば、初代邦山師の音源など聴いてみると、少なくとも笹の葉はあまり意識しておられないように聞こえる。志向としては、少しだけ頭を細らせた楔吹きの後半にユリを加えている印象で、形状で云えば水木しげるの漫画に見る “一反もめん” に似た一音の組み立てがあるように思える。他に2~3例を拾っても(あくまで音作りの美学においては)さほど変わらない印象が得られるということは、流祖がこのように吹いたのだろうと推測できる。
減衰に向かう時間が長いのは音作りにおいて不利ではないか、というのは琴古の勝手な思い込みであって、都山には都山の音作りがあるに違いない。ソコントコロ、明文化された美学があれば是非読んでみたいものだ。
LX100 初めての普茶料理に感心した新国宝・萬福寺、のたしか塔頭(伽藍側から撮ったため、よからぬマークになっていたのを左右反転)。
コンクール後に演奏会2つを経て、10月は舞台なし。おかげで自分を鍛えるための曲の稽古が昨年より捗って、正直助かっている。11月以降の予定は(書いて安心してまた間を空けてしまわぬよう)次回にでも。
そうコンクール。先日、公式チャンネルで本選の動画を見てきたが私のはヒドい出来だった(のでリンクは貼らない)。帰洛からの数カ月で新しい竹への習熟が深まりつつある証拠と思いたい。次回は本曲に戻そう。相変わらずレパートリーは貧弱だが。