道中宝の山、の巻
今、一息の寸法、その各音への配分。細部の、一息の造形に集中している。
細部の充実は造形美の奥行を決める。
これはこれとして、目を木から森に移せば、
文章のことにして、文節、句読点、段落がある。
この視点で一曲を、構成を吹かないで、確認し、更に、「ヤマ」はどこか。
序破急。攻めるところ、落ち着くところ。時速30kmで通さぬ工夫。
さても、
いい音だねぇ。
これが土台、基礎。
肝。
ウ、寛やかに豊に。
当たり、アタル指の開度は求める音の軽重、強弱に係る。その音は、裏か表か。強きアタックはアタリのアクションも大きく。割れる手前の限界を確かめつつ。
運指、気息、気合の一致。
撞木のテイクバックからの加速度的振り抜きのイメージか。
また、呂のレ、一二全開、
ウの一三のカザシ、閉め過ぎぬように、顎の引きで音程を作るつもりで。響きの色の吟味。潰さぬように。
音を吹いている間は丹田に気を置き下腹を押し出し続ける、4拍子、4拍子、、、、、。
吐く時下腹、で、「吸う」意識を忘れての、脱力即ち無意識の吸気。練習を。
これは吹いている音尻はここまで、と強く意識した反動で脱力(吸気)次の音頭の位置も想定した、、、。
この練習の次に、
長音の音尻の「韻引き」V字の戻し?で脱力。マを捉え、次の音。
こんな練習もありか?
逆に言えば、無音瞬時の吸気「脱力」の為の「韻引き」と考えられなくもない。出し切った、腹を押し切った反動の、裏の脱力。無意識の吸気。
挑戦、試行錯誤を。
タックルは己が心技に。
忘筌、花深処。
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SA仮眠を挟んで朝方フラフラと帰洛しました。ありがとうございました。
寸法の把握・制御、曲作り、指に頼らぬアゴ引きメリ、そして、腹押し・吸気の意識。いよいよ、私ができていないあまたの課題のなかでも、最根幹に触れる矯正シーズンに入ったと感じています。
毎度、自分の基礎や自称音楽がいかに浅薄な得手勝手であるかを痛感して悲しくなりますが、竹との邂逅と同じく、これも時分どきであったはず。そして、先生に施していただく痛くも嬉しい矯正術の、強力な伴侶として田中さんの竹があると。
田中さんのところでは、今の田中さんのゴツい吹き料に息を入れさせてもらいましたが、これが、私の竹をさらに深化させたような、この世のものとは思えないツのメリを備える神品。ほか、カリ音より大きく響くほどの恐ろしいウが「吹けば鳴る」怪物もおり。比べると私の竹は、かなり神経質でピーキーです。
ただ、これらの管を私は以前にも吹かせていただいており、その折はとても昨夜のようには鳴らせず、手に余るとしか思えませんでした。田中さんも、竹を買った頃のアータとは全然違うねと(褒め言葉とは限りませんが)。ほんとうに、先生と今の竹に導かれてこその、愉しき宝の山の登り道であります。
後輩から譲り受けた八寸管がなぜ元は七寸九分であったのかも聞けました。山崎竹隠さんの竹が七寸九分だったという事情もあるにせよ、結局のところ、音色を追求するとき正八寸との数ミリの差が大きな違いとなるのだと。連管や三曲合奏時のピッチを脇に置いても楽器単独の音色を追う。クレイジーで、グレイトです。
帰宅すると、NHKから当日の要項が届いていました。昨日、一昨日のお稽古を泥縄で身体に染ませつつ、もう少しだけ一二三を磨いて神南に響かせたいと思います。
K-5Ⅱs
オノレの吹きようや音楽に誇れるところなどいまだなく、しかし師匠の稽古が私にとって(Eテレ云うところの)奇跡のレッスンであり、また、吹き料の面倒を見てくださる田中忠輔さんが私にとって世界一の製管師であることは、大いに我が誇りとするところだ。「オレめっちゃ強いセンセに空手習てんねんぞ」といきがるガキンチョと選ぶところはないのかもとは思えども、道中の私、名の通った団体に属さず、徒手空拳の私の足を前に運ばせるエネルギーの主たる源は、お二人が長年かけて培い蓄え、私に与えてくれるものを空しくしてはいけないという切迫感にほかならない。極度に覚えが悪く、足も遅いが、師匠の
「運動に後戻りはない」の言に励まされつつ。