帰国してからまるっとひと月、こちらを放りっぱなしにしているうちに季節が変わってしまった。
音はいつしか春の音になり、鳴る日はべらぼうに鳴るが鳴らない日は真冬より鳴らないという乱高下を、特に雨の前後で繰り返す。とはいえ季節が逆戻りするはずもなく、毎年ここから右肩上がりに、竹は唸りをあげて鳴るようになる。ケセラセラ。某所からお借りしている「これは暖かくなったらとんでもない音を出すぞ」と確信していた重量級・超々広づくりの竹も案の定芽吹きの気配をまとい始め、すでにしてチのメリやツのメリ、五のハなどはオノレの音とも信じがたいほどのエネルギーをたぎらせて(ただし、今のところウォーミングアップに1時間はかかる)、しかも明らかに余力を残している。ド中年の私にとって、桜はもはや泡ぶくのような生、というより死の暗示でしかないが、空気に漲る生命感は、音を、律を否応なく変えていく。
この季節に注意すべきは、たやすく鳴らすことができる竹、その快に囚われて音楽から離れてしまうことだ。楽器のポテンシャルを使い切れるということはよき音楽の前提ではあるが、多くの条件のひとつでしかない。また、使い切れるからといってTPOに関わらず「必ず使い切る」というのも、どこかさもしいナントカのナントカ覚え。古典の譜面にフォルテやピアノの指示はないが、それは「然るべき強弱も分からんのやったら、アンタ結局センスないわ」という言外の恐ろしいメッセージかもしれない。
LX100 1200万画素の限界…。そして、毎年同じ場所で同じように咲く桜のつまらなさよ。
さて、チェンナイ、バンコクを経て帰国まで無事に供を務めてくれたメルカリ忠輔八寸には大いに感謝しつつも、帰ってきたら現金なもので、やはりメインの二管ばかりを吹いている。いつぞや書いたとは思うが、ひとつは薄い地あり・広づくりの三曲用(約30年前の作)、いまひとつは漆のみ・超広づくりの本曲用(ごく近年の作)。両者のキャラクターはかなり異なる、否、まったく違うのだが、二本ながらに音色、メリのツヤ・太さ、経過音のコントロール性など、あらゆる点でメルカリ管を凌駕し、それどころか20日間のブランクを経て、やはりこれらの楽器より私にフィットする八寸管はこの世になさそうだと改めて実感させられたのだから致し方ない。
念のため。音色、メリ、経過音は、今やこの順で大事なワタクシ的良管の条件である。音量やカリの安定性などは、オノレを鍛え、あるいは竹と親密になって吹き手自らが叶えるべきで、ここを一方的に竹に頼ると「直線は素人でもバカっ速いがろくに曲がれない欠陥バイク」みたいなことになる。イマドキの竹は、カリについては吹き込むや否や異常なほど安定した音を奏でるけれど、メリがろくに吹き込めなかったり、カリにしてもピークからのもうひと押しが頑として押せなかったり、甲レから四孔をスってツのメリに行こうとするとあっけなく音が割れてしまったりと、トータルでの自由度が低いと感じられるものが多い。専門ではないから知らないが、イマドキの曲は、こうした型に嵌めにくるようなイマドキ楽器で吹くのがいいんだろうか? 少なくとも私の思う琴古流の古典においては使い物にならない。
ひきかえ田中さんの竹は…いや、ここで美点を並べ立てても仕方ないか。吹いて知らしめることが私の役目だ。5・6月の予定が、私にしてはかなりの詰まり方。じき告知もしていこう。YO発奮。
アジアカップ。世界卓球などの「大満貫」に絡む大会を前に、中国が本気出してくるとこうなるという、男女ともいつもどおりの死屍累々。馬龍 vs 樊振東のサイボーグ卓球に見惚れながら、こりゃたまさか超絶ゾーンに入った張本か伊藤美誠以外で中国トップ勢に太刀打ちできる日本人おらんワ、と悲しくなる。
<追記>
PC版テンプレのプロフィール用ポンチ絵を変更した。以前のキューピーモヒカンから1ミリ坊主にして一年余、この先、髪型(?)をどうにかするとしても「諸」事情からスキンヘッドくらいしか考えられないのと、そろそろメガネを替えようと思っていることもあり。ロツレチで無理矢理描いたアレよりだいぶ実物に近づいたはずだが、どうだろう。
さらば旧ポンチ。