田中忠輔さんの導きで先生竹と引き合わされて11カ月ほど。出合った日がたまたま誕生日だったため、祝1年を迎えると同時に私は満50歳となる。いやはや、いい年だ。オッサンだ。
この竹は、私にとっては真新しい竹だが、新品ではない。どころか、田中さんが舞台で・工房で自分の竹として吹きながら幾度も調整を繰り返し、年来広づくりの限界点を攻め続けてきた一管だ(ゆえに歌口マクラの竹製キャップ部分には大きく「田中」と彫り込んである)。
5年前までの私はこの手の竹をろくに鳴らすことができなかったはずだが、2016年、私にとっての先代の竹を田中さんの工房で手に取った時、なぜだかいきなり芯から鳴ったのだ(今思えばその仕合わせよ)。そしてその音は、私が長らく「聴いたことがないのに」理想としてきた音、それに驚くほど近いと思われた。
そこからの4年ほどで、「思い切り背伸びをしても手が天井に届かない」ようなウルトラ広づくりのフルマニュアルの音幅とメリカリの自由度に魅了され、しかし一般的な竹、即ち中が狭い地塗りの吹き方でいくとどれだけ息があっても足りないところ、どう吹けば長持ちするのか試行錯誤しながら文字通り息を合わせてきた。そういう先代竹との経緯あってこそ、また田中さんが吹き込んでくれた年月あってこそ、先生竹は先代竹同様に吹いた初日から鳴った。もちろん、細部の扱いについては先代竹ともまた違う様々なクセを備えており、ゆえに今もって慣熟への道半ばであるのだが、思うに正しい吹き方はクセを問題としない。私がクセに悩まされているうちは、まだ完璧に正しくは吹けていないのだ。
さて、先代竹と3年ほどつきあい、「もっと天井が高い」「もっと自由に吹ける」先生竹に巡り合ったからと、メイン八寸をひょいと持ち替える。私の中での思いや発見を脇に置いてしまえば、アウトラインはこうなる。その「ひょいと」な新楽器で初めて稽古に臨んだのが、コロナフリーズを挟んでの昨年11月だった。師匠の前でひと渡り吹いてみたところ、「前の竹のほうが “カワミヤだ!” って音がして、私は好きです」とおっしゃるので私は内心大いにしょげたものだが、帰洛後にあれこれとメールをやりとりする中で、ふと以下のような言の葉をいただく。
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昔の名人は若い頃一本の竹に決めたら、当然のようにその竹を一生吹き通す。
その事を当然とする価値観が厳然と、或いは無意識にもあったのでしょう。
その事が何を意味するのか?
竹と共に育つこと。
永く吹き込んだ竹の響きは、新しい竹と響きが違う。
その辺りの事を言いたかったのです。
「良い楽器が見つかったら持ち替える。」
なんてことは、あり得ないことだった。
そこには「鳴らない竹を鳴るように育てる」価値観があった。
名人達が、特に八寸は、いつ見てもあの竹を吹いていたなあ。という事実。
その心を想って欲しいのです。
一生かけて吹き込んだ竹の響きは違います。
吹き手と竹が溶け合う。
とは言っても、
30年の間ににトントントンと、持ち替えてしまった、いや、持ち替えて当然、こちらの方が良いからと、持ち替える、持ち替えられるところが、時代の流れでしょうね。
ウヒ~が抜けた、と聞いた瞬間、こんな事を思いました。(★注:NHK邦楽オーディションでの私のヘマの話)
永く吹き込んでいる竹は、不調を救ってくれる、逆に好調の時も新しい竹では出ない響きを、その上の世界を見せてくれる。
吹き手と竹の一体化。
永く添うことによってのみ生まれる響き。
このワタシでさえ、慣れ親しんだ竹を持ち替えるなんて、考えたこともありませんでした。
こちらの方が良い、と
持ち替えられる、感覚こそが、次の時代なのでしょうね。
今の竹を良しとするなら、
もっともっともっともっと
吹き込まなくては、一体化の響きは生まれないし、
不調も助けてはもらえないでしょう。
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久しぶりに引用する師匠の赤ペン。
もちろん、この思いがあったとて、新しい竹の音をちゃんと聴かずに古い竹に習熟するほうへ誘導するような師匠ではない。実際、先生竹とはまだ阿吽に程遠い関係でしかないのであるし、そういう竹を持って師匠の前に出た時、まあ鳴って7割、くらいの出来になることはよくよく(悲しく)自覚している。
とまれ、お叱りをいただいた時はもちろんなるほどと共感し、尻軽なオノレの品性を恥ずかしく思ったものだが、私は生意気にもこう返している。
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普段あまり自覚していませんが、私は現代っ子だったのですね。
たしかに正直なところ、今でも「田中さんの楽器であれば」まだこの先、八寸を持ち替えることに抵抗を感じません。
もともとが、ハタチで初めて手にした自前の竹(都山系)で琴古らしい音が出せず「もっと鳴る竹はないか」と、わざわざ琴古を避けて探し物をしていたという見当違い。一事が万事でありますね。
ただ、忠輔さんが独創の末に辿り着いた製管の極北をさまざま味わってみたい、誰も見向きもしない、知りもしないその楽器を誰よりも歌わせたい、という欲求は、私が尺八を吹く動機の大きな部分を占めてしまっております。
生涯一管、本当はそうでなければならない、と強く思いながら、こそこそと田中さんの竹を持ち替える…。いましばらくお目こぼしをくださいませ。
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含みを持たせた書き方でいやらしいが、そう、実は私が「あの竹なら、あるいはさらに…」と思っている楽器は田中さんの手元にまだある。でも、年末年始でそこそこ吹き込んで先生竹のツボが新たにいくつか知れ、さらに快適度が増してきた今や、どうだろう、楽器としての自在性がより高い一管があることは分かりつつも、いったん「これが田中さんの製管の打ち止めどころならん」と確信した楽器と死ぬまでつきあって、せめて師匠のおっしゃる生涯一管に近づけた方がいいのだろうかとも思う。
問題は楽器ではなくオノレの腕、は大前提として。楽器=道具が大事でないなら、みんな樹脂や金属の縦笛を吹けばいい。新年ということで、我がラケットのラバーを1年ぶりに貼り替えた(ゴムとスポンジを貼り合わせただけのものだが、イマドキはラバーも安くないのだ)ところ、体感での打球の威力がざっと2割アップした(というより戻った)。道具は人間と行為をつなぐ媒体、大事でないわけがない。
LX100
なんの話だったか。そう、なにはともあれ、いま手にしている楽器を「もっともっともっともっと」吹き込め、というそれだけの。そして、やはりノズルはホースから離さないほうがいい。