ある身体のパーツを締める。これだけで、吹いている私にしか分からないひとつの劇的な改善が生じる、ということが、ようやく昨日判りかけた。今日のひとり稽古はほぼその検証に充て、さまざまな管で試して「ウム、間違いない」との確信を得た。この期に及んでのジャンプアップはもう望めないが、せめてこの発見は3日後の舞台にのせよう。
思えば、私が一生苦手にするだろう卓球のバックハンドドライブも同じ伝だ。威力を出したいと考えるとき、まずは手首を返す力を強くこめて、逆ビンタのように球を叩きたくなるのが素人のサガであるのだが、これが大間違い。まずは手首を「動かそう」の意識を捨て、バックスイングの上死点(?)のところでグラつかないように固定する。そこからさかのぼって肘…でもなく、さらにズンズンさかのぼって、肩を支点兼力点とする回転運動で球を捉える。さすれば腕はブレることなく、レールの上を転がる如く滑らかに振られ、しかも手首は勝手に返るのだ。
理屈はこうだが、白黒の小さな連続写真しか手本がなかった部活時代に「ラケットから振りにいく」ひどい自己流バックドライブを染みつかせてしまった私は、このコトワリに従って身体を操縦することがどーうしてもできない。
自由度を高めると楽チンなように思えても、定めたいときに定まらなくなる。特に、「できていない運動」を達成するためには、三次元を二次元に、二次元を一次元にと次元を下げて、動きをよりシンプルな容れものに移し替えたほうがいいケースが多い。運動の自由を制限すると、窮屈にはなる代わりに「バチッと決まる」「迷いがなくなる」。制約は様式を生む、というような文化論にまで振りかぶらなくても、グラグラしてるところをキュッと締めれば「なにかと」クオリティは上がる、というだけのことだ。
たかだか数分の演奏時間に向けてそれなりに大きなエネルギーを注ぎ込むと、こういう長らくの懸案を解決し得る発見がある。演奏会とコンペティション、どちらもその機会となる可能性が大きいイベントだけれど、集中の対象がより小さいのは後者であり、虫眼鏡で火をつけるなら焦点は小さいほどいい。とまれ吹きたいように吹いて練習できるのは、いよよ明日のみ。締まってこう。
LX100 家人によれば、イマドキのタイのアイドル系男性タレントは普通にこういうメイクをしているそうだ。前に来た4年前は、ここまで鮮やかなリップを塗った手合いは見かけなかったように思うが…。多様性後進国・ニッポンで、街行くワカモノがこんなかんばせになる日は来るのだろうか。いま、かんばせに「なってしまう日」と書きかけた、やはり昭和バイアスにまみれたワタクシ。家人も昭和語だよなァ。
なにっ!「立ち振る舞い」が間違った日本語でないばかりか、「立ち居振る舞い」よりも古い言葉で、その初出は風姿花伝だと。こりゃ参った。