夜中の2時だが、遠くから誰かの雄叫びが聞こえる。アホなヨッパライだろうと普段なら気にも留めないが、日々かくも陰々滅々・疑心暗鬼のアトモスフィアにあっては、抑圧に耐えきれず酔いにまかせて叫びだすアホがいても仕方ない、とうっすらシンパシーをさえ感じてしまう。なんにせよ、えらいヨノナカになったものだ。もはやこの先のことは、唇寒し、言わぬが花。オノレと近しい人の健康に留意し、あとは出たとこ勝負。
いつになるやらさっぱり分からぬシェイクダウンに向けて “最後の八寸” の慣らしを続けているが、吹けば鳴る日はまだまだ遠い。そんな状態ですら、この楽器に息を入れる喜びはかつてない大きさで、仕事に圧されて練習を切り上げなければならないのが毎度口惜しいほどだ。頼まれもしないのにはしゃいで師匠に寄越した報告メール数通の切れ端でも転載しておこう。他に大した吉報もない。
いや待て。吉報ではないが、ちょっと嬉しくなるようなことはあった。4月5日の「中嶋ひかる奨励演奏会」で共演予定、津上弘道さんのツイッターを読んでいると…
みんな大好き対数のお時間!
人間が感じる音の大きさが倍になるためには音の物理的な強さは元の10倍必要、3倍になるには100倍…聞こえる音は客観的な音の強さの対数に比例するそうです。
音量コントロールは原理的になかなか効かない道理です。
こんな示唆に富む豆知識が半年以上前に。対数なんて代物は100年前に忘れたが、なんかトクした気分。「なかなか効かない道理です」も、20代とは思えぬ言の葉選びのスイ。
ただ、物理を離れれば、音を倍に聴かせるために必ずしも音量を10倍にする要はない、というのも勿論のこと。人は共感と想像による補足をもって音楽を聴く。「私は今、倍の音を出してるつもりで演奏していますよ」のメッセージが円滑に届けば、聴衆は倍の音のつもりで聴いてくれる。その発信の巧拙、発信力の多寡が、いわゆる巧さの一部を構成していよう。津上さんもそんなことは先刻承知で、シンプルなトリビアにとどめているという話だ。
いや再び待て。となると、生演奏を聴いたことがない人は、共感・想像の元ネタを持たないことになる。正月の飲食店で天井のスピーカーから流れる千鳥の曲や春の海を聴き慣れて、まさかあの常に割れかけでペラッペラの音を「邦楽ってこんなものだ」と捉える人はいないと思うが、生を知らないなら脳内のグライコ(言葉が古い)をはたらかせようもない。スピーカーも生の箏もテントンシャンと音は発するが、両者は全く別の次元に属する。
デジカメ普及以前、印刷原稿がリバーサル(ポジ)フィルム主体であった頃、色校正において「ポジに忠実に」という朱書きこそは、DNPといえども逆らえない三つ葉葵の印籠だった。厳密には透過光で見るポジと反射光で見る印刷物が同じ仕上がりになるわけはないのだが、ギリギリまで近づけるための比較対象がモノとして存在するからこそ、このムチャ振りは可能だった。かたや、デジカメの画像に「元」はない。画像データはひとつだが、モニターにより、出力先により絵は異なる。現代の印刷物は、何が正しい絵、いやあるべき絵であるかを、然るべき立場の人間がエイヤッと「決める」ことによってようやく印刷のGOサインが下される。メートル原器のような基準点はないのだ。いや、その原器類も計測という計測が精確になりすぎた今やあまりアテにならないらしいし、そも100年後の未来に紙がメディアとして生き残っているかどうかなんて知れたもんではない。
あれっ、何の話であったか。そう元ネタ。お持ちでない方は、このパニックが一段落したら、邦楽の生を、リアルを、手ざわりを、たまには五感で味わっておくんなさい。こちとらも対面商売でそう阿漕なマネはいたしませぬゆえ。
閑話休題。イマドキ、SNSを引用するときはうまいこと貼りつける方法があると知っている(分かってはいない)が、オッサンはそういう便利すぎる道具をなんとなく、しかし決然と忌避する。かくしてLINEをやらず動画の上げ方も知らぬ老兵は消えていく。それでも、管尻は親指を根元まで入れてもガバガバ、手孔には小指が第一関節まで余裕でズッポシ(ただし私の手指は女性並みに小さく細短いが)、そんな最後の八寸をようよう吹きこなせるようになるまではどうでも死なぬ。
LX100
ひょんな流れからこの楽器が手元にやってきました。寝起き、腹ペコ状態で吹き始め、もう2時間、吹くのをやめられずにいます。
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最新作ではありません。そして、田中さん曰くの地なし、つまりゴロ節を軽く埋めて(一部残っている個所もあり)漆を置いたのみのズッポ抜け。内径・手孔径は本曲竹の一割増しくらい。先年譲ってもらおうかと悩んでいたゴンぶと、黒々の一管は、この管の内径を地でコピーしようと試みたものだそうです。だからあんなに重かったのかと。
全力でのカリ音のスケールは今の本曲竹と同程度。しかしメリ・メリ込み、押し引き、アタリのコントロール性が段違いで、音量を意図的に下げても段ツキせず、かつ音味が痩せません。ここが三曲でも使えると感じる理由です。5年以上吹き込んだ本曲竹を、吹き始めて3分で軽々と超えていってしまいました。
本曲竹の上位互換というよりも、三曲竹の方を大排気量エンジンにスワップしたような感触でしょうか。それでいて、息は本曲竹より保ちます。
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一億総引きこもりを命じられているに等しい時節柄、最終兵器の全力・長時間慣らし運転でご近所からのクレームが心配されますが、構わずボウボウと息を入れています。やはり素晴らしい。すぐ押せるのがいい。すぐ引けるのがいい。
それでも、音出しや爪弾きのようなフレーズ吹きでなく一曲を吹くとなると、三曲竹・本曲竹とも違うこいつのクセを飼い馴らすことは、やはり簡単ではありません。(中略)
ただ、この竹を吹くことで、三曲竹の奇跡的な素晴らしさもより際立ってきています。最後の八寸にさえ無い色がある。こちらは、忠輔さんとしては当時ある程度の流れ作業のなかで作った一本であるはずが、そこにはからずも神が宿ってしまったナリユキなのでしょう。
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実のところ、竹の律クセはまずまずあり、かつコロコロを響かせづらい、ナヤシのとっかかりや韻引きの収め方の塩梅が分かりにくいなど、本曲竹との差異があれこれあるのは当然として、より大きな障りとなっているのは、これまでやりたくてもできなかったあれやこれやができるのだ、を身体が簡単には信じ覚えてくれないことです。また、竹の天井も底もまだ見えていないので、トータルでどんな表現をなし得るのかも当然分かっていません。
この竹を短期間吹いただけで、三曲竹の限界と思っていた天井が抜けて、上階が見えました。佳き余波です。