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いずこじ

陰陽、笹の葉、風の色。琴古流尺八、道中甲有り呂有り。

お瑕疵の詰め合わせ

琴古流の運指で「ヒメチ」を吹くとしよう。ヒメは1拍とする。

1)五孔をアタリ、ヒメを発音する。
2)1/2拍地点でヒメをメリ込む。
3)3/4拍地点からメリ込んだヒメをスリ上げ始める=メリ込んだまま四孔をスル。
4)ヒ未満ギリギリまでスリ上げる(四孔は全開に近くなるが、全開ではない)。
5)スリ上げが上死点に達すると同時に、五孔の親指を大きく振り上げてアタリの動作を始める。
6)1拍地点(つまりチの0拍地点)を目がけてスリ上げた四孔を塞ぎ、同時に五孔を塞いでアタリを完了させる。
7)チを発音する(というよりおのずと発音される)。

書き出してみて、いつまでたってもヒメからチに到達しないのでゼノンのパラドックスを思い出した。身体がオートマティックになった今や、ほぼ意識しないでこの一連をやれる。というか尺八を「吹ける」人は、みんなこうした無意識の一連を繋げに繋げて曲を吹く。無意識の対義語としての意識(いわば有意識)は、もっぱら「曲をつくる」ことに割く。それはともかく。

ヒメチで陥りがちな間違いは断然、6)に集中する。スリ上げ終わった四孔を塞ぐ動作と、アタリを終えるために五孔を塞ぐ動作とは違うことを忘れ、四孔も五孔も上から塞ごうとしてしまうのだ。もちろん五孔はアタリの最中だから上から塞ぐのが当たり前だが、四孔はスリ上げた指を元に戻すだけだから上から塞ぐ(即ち、いったん指を上に離して上から塞ぐ)のは誤り。ズラした指を、ズラした動作の逆回しで「スライドさせて」四孔に戻すだけが正しい。

四孔を塞ぐのに指をスライドさせて戻そうと上から塞ごうと、大した違いはない。ないのだが、少し違う、同じではない。スライド戻し式は、スリ上げでヒのギリギリ至近までは行くがヒには至らないまま五孔アタリに入る。五孔の親指が全開になる頃には四孔は半開くらいに戻っていて、だからこのアタリの経過音は五のヒの中メリくらいの “微妙な音” になる。対して、上から塞ぐ式は単純明快、五孔アタリの親指の上死点では四孔も全開であるから、ここでの経過音はキッチリ五のヒになる。ともに一瞬間の音だが、両者の味は確実に違うものになる。

これ、いちばん初めに習う「初学入門手引」に書いてあることを総合して理解できれば間違えることはない。しかし。初心者はその総合ができないから師匠に習うわけだが、教わったとしても、師匠も稽古の間中ヒメチの最後のアクションだけを注視しているわけではない(初めのうちは教えなければならないことが常に渋滞している)のだから、よほど妙な音を発していなければ見過ごされることも多いだろう。

もちろん、言いたいことは「ヒメチを正しく吹け」ではない。こういう個々の小さな正誤の差、その一つひとつが集積されて、ある奏者の「ちゃんと吹いている度」を構成しているということだ。「あれ、ここはどう吹くのが正しいんだっけ?」とフト立ち止まることはよくある。そこで初学に立ちかえってオノレを改めるかどうか。改めなければ、見過ごされる誤りは一つ。だが、改めないという習慣は、あらゆる誤りを見過ごすという悪習に直結する。そんな者の吹く竹を、まともな耳を持った人が評価するはずはない。仮にいい加減なヒメチひとつが彼の人の耳をすり抜けたとしても、それがキッチリ吹いたヒメチよりよく聞こえることはあり得ない。

私の独り稽古、特に40代後半からのそれの1/3見当は、オノレが長らく溜め込んだ上記に類するいい加減を矯める作業と云っていいと思う。これがマア直らないこと。世界一の師匠についてさえこの有様なのだから、まかり間違って世界第2位以下の師匠についていたらば、瑕疵を直しきれないくらいならまだしも、オノレの吹き方が瑕疵だらけであると気づきもせぬまま棺桶に入るハメになっていた可能性が高い。脚下照顧(ごく形而下的な意味で)。


LX100 仕事で人吉・球磨を訪ねた。日本にいくつかある別天地の一つに数えられよう。これは落差36m、鹿目(かなめ)の滝。LX100にNDフィルター機能があれば “ああいう” 滝写真が撮れるのになァと嘆きつつ、SSを1/4000に設定するしかないのだった。

ひとまず生命を脅かすほどの熱波は去り、音はかすかに乾いた秋色を帯び始めた。この時期の、しかも調子のいい日の音で年がら年中吹ければいいのだが、そうはいかないところが楽器の、音楽の面白さか。
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河宮拓郎(カワミヤタクオ)
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