三曲の未来を思考する会主催「第3回 邦楽演奏会」での残月、九州系ツープラトンたる阿部幸夫・井上渓子両先生の足を引っ張らずに済んだかどうか、ひとまず。会全体も、コロナ明けという状況を考慮に入れずとも十分に盛況であった。世話人・原田豊鳳さんの運営努力が偲ばれる。
舞台上で感じたとあるささいな(つまり重要な)変調が気になっていたのだが、約1週間経ち、その不具合は本曲の稽古不足によってセルフチェック機能が低下したために発症したものだということが分かり、改めて三曲と本曲は琴古流の両輪であることを思い知る。どちらも抜かってはならぬのだ。精進。
九十九里よりはるばると聴きに来てくださった師匠とのやりとりから久々に引用させていただいて、一瞬間、自分を甘やかしてみようか。いや、これもつまりは「ますますフンコツサイシン努力せよ」というミミズ腫れ必至のご鞭撻であるのだが。ごっつぁんです。
アタリ、ハズミが皆無で、あっても、音楽的に素晴らしい人が出て来るかも知れません。
違和感は昔を知る、長く生きてきた人だけの負の遺産と見ることもできます。
しかし、受け継がれて来たワザの蓄積は、目的への最短、最良のオドウグであるはずです。
琴古流とはなんぞ。
現在までの最善をカタクズレさせずに自家の薬籠に入れるだけではない。
その吟味熟成、更にはその先、成長点としての模索実践が必須でしょう。
などと
伝統の腑分けをしても、
詰まるところ、
《藝は一代》
ど真ん中にいます。
後ろの吟味、前への模索。
その先へ吹き開いて下さい。
さてもこのひと月余りで、多彩なえにしの花が咲いた。花はいずれもひとさまの丹精の成果として咲いたあくまで他人の花だが、いずれも私の関わる人々の間に、私の見ている目の前で開いた花であったことが嬉しかった。そのとうとい花を、ひとつところに集めてお前の会とせよとおっしゃる人がいる。私なんぞが、と畏まっても今さら。人前で吹きたくないならコンクールになど出たりはしない。さあ、来年もやることがいっぱいだ。鬼よ笑え、ウイルスは笑うな。

GM1
ついでだ。久々に宣伝でも。


私の写真はヘタクソだが、これらのうちひとつでも「旨そう! 作ってみたい!」と思われた向きは、「あまから手帖」新年1月号をお求めあれ。12月23日発売。たとえば最右の一品は、京都『むろまち 加地』謹製、その名も「サーモンわら燻製白ネギイクラがけポテサラ」。作れます。言わずもがな、旨いッス。そうそう、これらの取材期間のまっただ中に田辺があったのだった。キツかったなあ。